一番易しく難しい質問









アタシがクロッカスの世話を始めてから、授業以外ではからきし椎名先生の姿を旧校舎の裏庭で見ることが無くなった。
毎日、クロッカスの様子見とアタシの監視をしに来るとばかり思っていたのに――。

拍子抜けだ。
ぽりぽりと泥まみれの指で後頭部を掻きながら、桜の木の下に置いてある紙袋を見つめる。
中には先日先生から借りた白衣が入っていた。
ここに来れば渡せると思っていたのだけれど、どうやら的外れだったようだ。

一方、クロッカスの様子はあれから徐々にアタシに変化を見せてくれた。
勿論、椎名先生の花壇にいた頃と同じ姿と言うには程遠い。
1日1日の僅かな変化ではあるが――。

しかし漸く根が土に降りたのか、今は大きく花弁を開いている。艶と張りも幾分か増した気がする。

「ありがとうね、色々教えてくれて。」

アタシはそっと人差し指で黄色いクロッカスの花弁を触れた。
花には体温はないはずなのに、どこか温もりを感じる。
陽をたっぷり浴びている様子がちゃんと手から見る事が出来た。
地面に近い場所で咲く黄の花はアタシをちゃんと見上げていた。



「さて、どうしよう?借りっぱなしはマズいよなぁ。」

カサリ。桜の木の根元にある紙袋へ手を伸ばすと白衣を確認する。
念のため、柔軟剤を使って洗い、折り目正しくアイロンを掛けて来た。
形正しく白衣を見ると、アタシはそのまま先生の研究室へ向かう事にした。
先生としてはあの部屋に訪ねられるのを快く思わない可能性が高いが、このままアタシが持っていて、いつ渡せるか解らないのも困る。

「よし。」

泥を叩くと紙袋を提げて、旧校舎1階最奥の部屋へと足を運んだ。





恐る恐る椎名先生の研究室へ向かったものの、一転、先生は不在であった。
ノックして確認した訳ではない。
不在と書かれた紙が一枚だけ扉にヒラヒラと貼られて風に靡いていたのだ。その頼りなさがどこか先生らしかった。

「……なぁんだ……。」

意気込んだ力がスルスルと抜けて行く。
気が付けばその場にヘタリ込んでしまった。一気に襲う脱力感。
そこまでここへ赴くことが怖かったのかもしれない。
だってアレ以来、直接先生とは会ってはいなかったから。

足に力を入れて立ち上がりたいのに思うように力が籠もらない。
産まれたての仔鹿でもあるまいし、と思いながらもヨロヨロとアタシの足は頼りなく、再びヘタリ込んでしまうのだった。





「ニャア。」
「……今度はここ?」

眉間に思い切り皺を刻み込んだ椎名が見下ろすのは両足を前へ投げ出し、廊下の壁に凭れながら眠る白衣を貸した相手だった。
両腕には大切そうに紙袋が抱き抱えられている。
中身が白衣であることは確認しなくても椎名には分かっていた。
もしかしてこのように返しに来ることも。

「……でもなんでまた寝てんの?」

腕組みをしながら眠る生徒を観察する。裏庭で眠っていた時と同様に小さな呼吸が聞こえて来るだけだった。





周りを見渡して気が付いたこと――。





「ニャア。」

ぺしぺしと何か柔らかい物で額を叩かれる感覚で重たい瞼が持ち上がった。そして鼻を何かが舐める。

「ニャア。」

目を開ければ目の前にでかでかと野良の顔があった。そしてもう一度ぺしっと額を叩かれる。
それは野良の肉球であり、そんな野良の背後には誰かが野良を操っているのがぼんやり見えた。
フォーカスすれば、それは不機嫌そうな椎名先生であった。

「っわあ!」
「……アンタってどうしていつも寝てんの?」
「え、いや、その眠るつもりは無かったんですけど……。先生が戻る迄待たせてもらおうかと……。」

顔に心底迷惑だと書かれた先生の視線が痛くて、目を反らす。
白衣の入った紙袋をキュッと抱き締めた。

「……なんで?」
「……え?」

不意に投げられた質問の意図がわからず聞き返してしまう。

「……なんで俺を、待ってるの?クロッカスだって見捨てることも、白衣もここに置いていくことも出来たのに。……なんで?」

そんなふうに問われてアタシは反射的に返答をした。





「理由なんてないです。責任は最後まで取りたいし、アタシがしたいと思ったから……。」

その言葉に他意はなかったが、強調し過ぎたかと思い、思わず手で口を押さえた。
恐る恐る先生へ視線を上げると先生の目は驚きに満ちていた。





そしてまた繰り返す――。





「……なんで……。」





一番易しく難しい質問

(アタシは先生の納得いく答えは持っていません。)
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