Lucy









「ニャア。」

ペロリと頬を舐められた生暖かい感触でアタシは目を覚ました。
既に旧校舎の裏庭まで朝が訪れていた。
野良がアタシの泥だらけの手に擦り寄って来て、冷たい地面の温度に漸く自分のいる場所に気が付く。





「……アタシ、寝ちゃったん、だ……。」

辺りに荷物が散々する。
必死に駆けて来た朝方が嘘のようにすっかり力が抜けてしまっていた。
そして肩からハラリと何かが優しく落ちる。
拾い上げてみればくたくたの白衣だった。
自分の熱を閉じ込めてほんのりと温かかった。





──……?
──まさか、ね……。

アタシは心の中に浮かんだ疑問を払拭するように叫ぶと体を一気に起こす。

「そうだ、クロッカス!」

振り向けば、そこには黄色いクロッカスが小さく花を開いていた。
まだ元気と言うのには程遠い。弱々しい姿は変わらない。しかしクロッカスは花を咲かせてくれていた。
安渡と嬉しさでクロッカスの花の輪郭をゆっくりとなぞる。
とても愛しさで一杯になった。

これが育てると言う過程なんだ。

アタシはもう一度だけ心の中でクロッカスにごめんねと呟くと、くたくたの白衣を片手に眩しい朝陽に目を細めた。
1日が今日も始まる。










「どーしたの?志乃、泥んこじゃん!」

昇降口で百佳に出逢うと開口一番に大きな声でそう言われた。
そこまでびっくりされるような格好でもしているのだろうか。
両手は水道で洗ったし、制服に着いた土も乾いて叩き落としたと言うのに。

「まだ泥んこ?」
「まだも何も顔に土付いてるよ。早くトイレ行って顔洗って来た方が良いよ!」

背中を百佳にぐいぐい押されて一階の女子トイレへと向かう。
すると綺麗に磨きあげられた鏡の中には確かに泥んこの少女がいた。

「な、何コレーッ!」

叫ぶと共に鏡の中の少女も同じように叫ぶ。それは紛れもない己の姿であった。
頬っぺたに鼻の上、顎にまで泥が乾いて貼り付いている。
土の上で寝てしまったからか、作業をしながら顔に触れでもしてしまったからか。真相は解らないが、こんな顔で教室までは行けまい。

アタシは百佳に鞄を預けて念入りに顔を洗った。パシャパシャ跳ねる水が冷たい。
一気に目が覚めた。
アタシが鞄からハンカチを取り出すと百佳の眉間に皺が寄った。

「志乃、これ何?」

百佳が指で摘まみ上げたのはくたくたの白衣だった。
少々バイ菌扱いされたのに頬を膨らませて百佳からそれを奪い返す。

「……別にいいの。」
「あ、隠し事ー?こら吐け。」

アタシの後ろから手を伸ばす百佳から白衣を守るように抱き締める。
すっと、一瞬だけそこから薬品の香りがした。
そしてそのポケットから一枚の紙切れがアタシと百佳の間にひらひらと舞い落ちた。

「……何これ?」

百佳がしゃがみこんで紙切れを拾うと、そのまま紙切れに書いてある内容を読み上げる。

「ルー……シー……掃除?」
「ルーシー?掃除?」

百佳の真横に横付けてアタシもその紙切れを除きこんだ。
そこには。





『Lucy 掃除』





線の細い字でそう小さな紙に書かれていた。

Lucy……?
外国の女性の名前……?

「ルーシーって名前の先生いないよね。女の英語講師は確か、ジェニファー先生だけだったし。」
「英語の先生は白衣着ないし、ね。」

お互いに不思議なメモに対して訝しげに顔を合わせる。
くたくたの白衣に謎の紙切れ。
アタシたちでは解読不可能。

「……そんな時のスマホね。」

百佳はスカートのポケットから可愛く装飾されたピンク色のスマホを取り出すとインターネットへと繋げた。滑らかに画面を指で滑らすこと30秒。

「……これかな?」

スライドされた画面に表示されたのは難しい片仮名の羅列であった。





『ルーシーとは、アウストラロピテクスであり、1974年11月24日にエチオピア北東部にて発見された、318万年前の類人猿初期の人骨化石である。』





益々眉をしかめる。

「……なんで化石にルーシーって名前がついてるの?」
「……当時流行していたビートルズの“Lucy in the sky with dairymaids゛に因んで付けられた、だって。」

略、棒読みで百佳がその続きを教えてくれる。学名とか難しいね、と言いながら既に興味は別に移ったようで、百佳は着信メールを弄り始めた。

Lucy……。
Lucy……。
Lucy……。

アタシはその化石の名を繰り返し口内で呟くと、やっぱりと言う感覚が身体中に走った。
化石や学名、くたくたの白衣と来たらもう断定してもいいだろう。
キュッと小さく白衣を握る。





この白衣は椎名先生のものだ。
そして恐らく推測が合っていればLucyは研究室の椅子に脚を組んで座っていた人骨模型だ。
こんなコアな名前を誰が付けるだろう。
推測が瞬く間に確信へと変わり、アタシの頬は熱くなった。

鏡の中には泥だらけの少女ではなく、紅潮した少女が一人──。
まだこの紅潮の意味を知るのはずっと先のこと──。





きちんと洗ってお礼を言いに行こう。
だけれどクロッカスは約束を守れてから報告をするんだ。
あの、秘密の花園の待つ旧校舎一階の最奥の先生の部屋まで。





Lucy

(アタシの出した答えはあっている?ねえ、空から未来を見下ろすLucyへ。)
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