![]() | いきものがかり |
桜もとうに新芽を出し始め、入学し、早一週間弱過ぎようとしていた。 新しい環境に慣れて来て、入学式から仲良くなった百佳と二限目の現国を終えて、担当教諭について話をしていた。 すると、教室後方から誰かに呼ばれる声がする。 「佐伯ー!」 見やれば同じ中学出身の橋本が手招きをしていた。彼は今日も元気一杯だ。 『志乃の彼氏〜?』とからかう百佳を眉を寄せて窘めるとアタシは橋本の所へ駆け寄り腕を組む。 もう話の内容は解っている。 「……で、今日は何の教科?」 「悪ぃ、今日は生物。E組もあったよな?」 「そこはチェック済みなら鞄の中をチェックしたら?」 「部活の中身は完璧!」 「そこじゃないでしょ。はあ、一昨日みたく悪戯書きして返したら只じゃ置かないから。」 アタシは廊下にあるロッカーを開けて真新しい生物の教科書を取り出す。印刷物特有の香りがした。 新しい教科書を先に使われてしまうのは癪だが、そこは溜息と引き換えに橋本へ手渡す。 「ん。」 「いつもサンキュー。じゃあ三限前にまた来るわ。」 その時、ふと新しい生物科担当が誰なのか気になって橋本に問う。 「多分、B組とE組と同じ先生だと思うんだけど、橋本誰だか知ってる?」 「いんや、生物あったの今日知ったし。」 こいつに問うたアタシが馬鹿だった。 「そういや、膝小僧どうしたんだ?」 「ああ、これ?昨日旧校舎前で転んで……。」 自分で新しく貼り直した不器用なガーゼを見下ろす。 「普段しっかりしてる癖にどっか抜けてるよな、佐伯って。」 「ほっといて。教科書返してもらうよ。」 橋本との会話の間でふっと昨日の白衣の先生とのやり取りが頭に蘇った。音声は無いが8ミリビデオのように場面がくるくると踊る。 ――そうだ、アタシ昨日……。 『椎名』と言う先生に手当てをしてもらったんだった。 無駄のない綺麗な処置だった。事務的なのに目の色だけ一瞬温かみを帯びたような気がした。 確か先生は白衣を着ていた。猫を連れていた。 ――まさか、ね。 何かの疑問を拭い去るようにアタシは音程の外れた口笛を吹いて教室へ戻る橋本を見送る。 椎名先生の部屋は生物科と言うよりはどちらかと言うと研究室のように見えた。恐らく化学科担当なのだろう。 三限目の英語が終わり、橋本から返ってきた教科書に真新しいノートを添える。忠告したにも関わらず橋本は新しいまだアタシすら使っていない教科書に悪戯書きをして返して来た。 文句を言いに行ってやろうと思った時だった。その瞬間、アタシはそこに目を疑った。 『タイトル:しいな』。その下に線の細いしかも下手くそな似顔絵と思われるものが描かれている。 目は一本線。口は一文字、髪は癖毛のつもりだろうかにょろにょろとした何か描かれている。 橋本の画力は別として、これって――。 アタシは『まさか』の答えが現実になるなんて思っていなかった。 キーンコーン、カーンコーン。 四限目開始のチャイムが教室に響く。アタシは思わず、その音に肩を揺らした。 ドキンドキンドキン。 同時に身体中を一気に緊張が走る。 手は薄らと汗ばんで真新しい生物の教科書を意味もなく捲りだす。 そして気が付いたら教壇に白衣を来た人物が立っていた。 クラス中のみんなが唖然とする。 それもそのはずだった。 いつ入って来たのかわからないくらい自然に佇んでいたのだから。 そしてその佇んでいた白衣の先生こそ、橋本が教科書に下手くそに記していた紛れもない椎名先生であった。 先生は号令をかけはしなかった。出欠確認も名前を淡々と読み上げるだけ。 そして教科書と黒板を行ったり来たりをしながら授業は進められた。 そして一番の特徴は生徒の方を一度も見ないことだった。話す内容も機械的で、教えると言うよりは資料を読んでいる、そんな印象だった。 ノートに板書された文字を映して行く。先生の字は細長く、筆圧が弱いのか流れるように書かれていて消え入りそうだった。 ――まるで先生みたい……。 そう思って鳥肌が立つ。 確かにその通りだった。先生は教室に入って来た気配を全く感じさせなかったのだ、クラスメイト一人にも。 授業も機械的なものだからだろうか、昼寝をする男子を何人か出没する。クスクスと内緒話をする女子が出没する。 それでも先生はそんな事に全く気も止めやしなかった。 途中に生徒ではない教室の宙を舞う先生の視線も何か見ている様で見ていない様だった。 昨日、出会った時と同じ目をしていた。 今日も先生の瞳は澄み過ぎている。 キーンコーン、カーンコーン。 四限目終了を告げるチャイムが鳴り響いた。 「よっしゃー、昼飯!」 「ふあ、眠かったー。」 みんなが一斉に授業から勝手に解放される。そんな中、先生はまたクラス中の解放感の喧騒など無視して黒板に何かを書いて、そのままそっと教室を後にした。 そして後ろの扉を見やった時に廊下を歩く先生と一瞬だけ目が合った気がした。 ――えっ……。 いや、勘違いだろう。アタシを見たとは到底思えない。そして先生の去った教壇に視線を移すと黒板に何かが書かれていた。 「志乃、あんた係になっちゃったみたいだね。阿弥陀クジで授業中に決めてたとか不思議な先生だよね。」 百佳の言葉の通りに黒板に板書された内容を読み上げる。 『生物科係1―E、新井、佐伯。以上、さっき阿弥陀で決めた結果。』 「な、何でアタシがっ!?」 こうしてアタシは何の因果か、授業中に阿弥陀で係を決めてしまう超マイペース生物科教師に少しずつ巻き込まれ、巻き込んで行くのだった。 いきものがかり (ひとつの接点、後にこのいきものは椎名を意味することになる。) |