その諦めをくれませんか。








――ガラガラガラガラ……。
遠くから響いて来た音がアタシの隣に停まったのは涙を拭き上げたのと同時だった。





見上げれば白衣の先生が顎で目の前を指し示す。そしてその指し示すものと隣に位置付けられたものに視線を落とすと、そこに停まっていたのは台車であった。

「…………え?」

思いもよらないものの登場にアタシはもう一度先生を見上げる。
顔は笑っていない。真顔と言うべきか、無表情のままである。
そして再度小さな声に促された。

「……乗って。」
「…………。」

とても冗談を言っているようには思えない。しかし台車で自分が運ばれようとは考えもしなかった。
決しておぶられてとかお姫様抱っこなんかは毛頭になかったが、まさかの台車。

いつの間にかアタシの涙はぴったりと止まっていた。





ガラガラガラガラ――。
長い長い廊下に響く車輪の音。
ガタゴト、ガタゴト――。
時に古びた廊下のどこかに車輪が引っ掛かり、台車は揺れる。
しかし押される台車のスピードが変わらなかった。遅くもなく、早くもなく、歩くよりはゆっくりでどこか安心出来る速度。

アタシを気遣ってなのか。単なる先生のペースなのか。
完全に両膝を伸ばした状態でアタシは台車から先生をこっそりみやる。

――あ……。





「ニャーン。」

野良と呼ばれた猫と目が合って甘ったるい声を出されてしまった。
それでも先生がアタシを見ることはなかった。





ガラガラガラガラ……。
台車に押されて漸く止まった先は廊下一番奥の教室であった。

(ここは一体……?)

先生はこなれた手付きでその部屋の扉を開け、台車の位置を直しそのまま部屋の中へ真っ直ぐ進める。

どこか土っぽい匂いのを残る部屋だった。
本棚には沢山の雑誌や書籍が余すとこなくびっしりと埋まり、ガラスで透けたキャビネットにはビーカーや試験管、よくわからない液体瓶なんかも見える。

(……益々わからない。ここは一体どこなの?)

不思議な感覚が胸に沸き上げて、一瞬にして鳥肌となった。

そしてそんな部屋の中にある机と椅子に目を移した時だった。



「……きゃあ!」
「……何?……っていうか耳痛い。」

何って。そんなこと淡々と問わないで頂きたい。大抵の人間ならば普通に驚くはずだ。

二つ並んだ教員用の机と椅子の片方に骸骨が腰を掛けていたのだ。
何と脚まで組んでる。

目が目まぐるしくぐるぐる回る。

(何なの、何なの、何なの。)





先生はアタシが驚いていることさえどうでも良い様子で、キャビネットの下段からカチャカチャと金属音を立てながら何かを取り出した。
鳥肌の上にさらに鳥肌が立つ。

すると、先生が取り出したのは消毒液と脱脂綿にピンセット、受け皿であった。
そして何故か手には薄いゴム手袋を、顔には半分は隠れるくらいの大きなマスクを装着する。
どこからどう見ても手術前のドクターにしか見えない。くたびれた白衣以外は。

「あ、あの……。アタシは手術……される……んですか?」

アタシの言葉に一瞬だけ先生の目が見開かれた。この問いには先生もどうやら驚いたようだ。
しかしまた無表情になるとカチャカチャとピンセットと消毒液の入った瓶を弄り始める。
ツンッと鼻を刺す香りが辺りを包んだ。

「……あの骸骨は人体模型。別に本物じゃない。」

先生は淡々とアタシの膝を生理食塩水で軽く脱脂綿で洗うと、丁寧に消毒液を傷に当てて行く。それはとても事務的な動きで、ゴム手袋がそれをさらに助長する。

――あ……。

ガーゼを当て、医務用のテープで井の字のように貼りつける。そして歩きやすいようにだろうか、膝周りを慣れた手つきでテーピングで固定してくれた。

そしてそんな淡々とした応急措置の中に先生の変化を垣間見た。
作業は機械的で思いなど籠もっていないのに見てしまった。
見えてしまった。

先程、出会ったばかりの昇降口で見た底のない瞳に灯りが灯るのを。心なしかマスク下の口角も一文字から弧を描いているように思える。

(……この人……。)





しかしそんな淡い灯りもその一時だけだった。処置が終わると灯りは翳り、また底のない瞳にすっと戻ってしまった。

――あ……。

先生は背中を向けて処置の終わったピンセットと受け皿の消毒を始める。もう先生からアタシへ視線を向けられることはなかった。

処置の終わったアタシは台車に座ったまま、こちらを見ない先生の背中を見つめる。

そしてその翳りを持つ背中に無言で問うた。





――何でそんなに全てを諦めた目をしているの?
――奥に灯ったと思ったものは見間違えだったの?





「……終わり。もう出て行ってくれる?」
「……は、い……。」

先生は気が付かないでしょう。
再び、鼻の奧がツンッと痛みでいっぱいに広がっていることを。

先生は気が付かないでしょう。
これは消毒液の匂いなんかじゃなくて泣きだしたくなる直前の合図だと。





アタシはとぼとぼと先生の部屋から脚を引き摺りながら後にする。

『Shi-na's Labo』

部屋の入り口にはそう貼紙がされていた。

……椎名先生。





アタシは陽の陰り始めた長い長い廊下をテーピングを頼りに歩き出した。





その諦めをくれませんか。

(自覚のない捕らわれの始まり。)
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