ありがとうの言葉の後は、









先生はアタシを助けてくれた──。





ベッドの中でアタシは羽毛布団を頭まで被ると目を瞑って身体を抱き締める。
今にもミシミシと亀裂の走りそうな頼りない痩躯。
冷たい指先は抱き締める身体を更に凍えさせた。針の先に刺されるように気持ちが身体へ返る。





アタシを助けてくれた異性は初めてだった──。





五臓六腑を握り潰されたような感覚の中でアタシの指先は更に腕に食い込む。
骨の感触が痛くて堪らない。

でもそれ以上に椎名先生を拒んでしまったことのが痛かった。
後から知ったことが痛かった。

どうして先生はアタシなんかに触れようとしたのだろう。
確かに先生は『人に触れられることが怖い』とはっきり口にしたことを忘れない。
他に応援を呼べば良かったではないか。





──なのに、どうして……。
──そして何よりこの身体には触れてはいけないのよ、先生が安心して触れられるモノではないの。





「……うっ、けほっ……。うっ、えっ……。」

吐き気が喉まで競り上がり、また嚥下される。口を押さえても何も出ては来ないが、気持ち悪い気が指の間をすり抜けた。

過去の身に振りかかった事故を身体が未だに覚えている。アタシはその時、6歳の少女に戻ってしまう。

ああああああっ……!

頭の中でチカチカとあの時の場面が映画のコマのように目まぐるしく変わる。

ああああああっ……!





──……椎名先生っ……!!





ハッとした。
脳内の映像が一度真っ白にクリアされる。そして今度は寂しそうに佇む一人の白衣の後ろ姿を見た。
右手は固く固く握り締められていて、心なしか震えている。

雨?
雨でも降っているの?
画像は霧がかかったように曖昧でその顔までを窺い知ることが出来ない。

……先生?
今そこにいるのは椎名先生なの?
ねえ、俯いていないで教えて?





ザアッ……。
映像はアタシの涙と共に大雨となった。それでも彼は無言で佇んでいる。
どんなに冷たい強い雨に濡れながらも、固く固く右手を握り締めまま──。

……このままではアタシの中の椎名先生も救われない。きっと触れることを拒むのに、手を伸ばし、それを拒絶された椎名先生本人も……。
ただのアタシの勘違いだけなのかもしれない。アタシだけが自己完結したいだけなのかもしれない。

でも、このままではいけないのは解ってしまうの。
あの透き通り過ぎた瞳を覗いてしまった日から。





アタシは次の日、いつもより一時間早く自宅を出た。
いつもの朝なのにいつもの朝ではない。
アタシの背中に一本の筋が入る。
自然と足早になる。
いつもの一時間がとても遅く感じる。

目的はたった一つだ。





「……ハアハアハアッ!」

なんて長いの、この並木道。
一層のこと裏門を解放してくれたらいいのに。
縺れそうになる足をやっとの思いで次の歩に繋げる。

あと少し。
そして次の一歩で視界は昨日の映像で広がった。唯一異なる点は霧がかかっておらず、彼までの空気がクリアだと言うこと。

「……椎、名……先生……。」

白衣を着た彼の右手は固く固く握り締められていて、心なしか震えている。
アタシの手のひらを固く固く握り締めて、どうしようもない気持ちが震えと変わる。





「……椎名先生っ!」

アタシの声に漸く彼はこちらを向いて目を見開き、直ぐに俯いた。

違う、違うの。
アタシは貴方にそんな顔をして欲しくないの。

ただただ……。
自然と恐怖を足に絡めながらアタシは椎名先生の下へと寄る。

「……一昨日は……ごめんなさい。」
「………………。」
「……助けに……来てくれて……、」
「……嫌な思いを……させたな……。」

先生はアタシを見ない。見ようとしない。

「違うの、先生っ。確かにまだ拭えない傷はあるの……。でも、あそこで先生が助けてくれたから……。」
「………………。」
「……手を伸ばしてくれたから今こうして居られるんです。」

透き通り過ぎる瞳とアタシの視線が交錯する。その瞳はゆらゆらと揺れていて今にも涙が零れ落ちそうだ。

「……だから、」
「……だから?」
「……ありがとうございました。」

お辞儀をした途端にふわり、足の力が抜けてその場にしゃがみこむ。
絡まった恐怖が解けたのだ。
なんて間抜けな言葉の後だろう。
恥ずかしくなって一気に耳まで熱が広がって行くのを感じる。





「……そこまで意気込んでたの?」
「……だって、」
「……アンタって……。」
「えっ?」
「……やっぱり変だね。」

椎名先生がふっと一瞬だけ笑ったような気がした。そして先生はいつもの如く、花壇の手入れの準備をし始める。





「……こっちこそ……ありがとう……。」

風に乗せられた彼の言葉は、アタシの耳に届く前に空気に溶けて消えた。
でもいいのだ。

その空気を吸うのは紛れもない己れなのだから。





ありがとうの言葉の後は、

(またいつもの日常。)
(でもそれが幸せだと言うことを彼らが認知するにはまだ幼い。)
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