透けた瞳の向こう側









「…………。」
「…………。」

無言の密度も持たない空気の中、アタシと先生は視線をお互いに動かすことはなかった。
先生の肩にいる猫だけが呑気に前脚を舐めて洗っている。

(……この猫は先生の?)

言い放たれた不機嫌な言葉から察するにアタシは勝手にこの先生の猫を触っていたと解釈されている。
ちょっと待って、とアタシは思考を整理すべく頭に手を置いた。

仮にこの猫が先生の猫だったとしても勝手にやって来て懐いて来たのは猫の方であって。
アタシはこの猫が先生の猫だと言うことは新入生な訳で知らなくて当然で。
と言うよりも、まずは目の前にいる先生さえ、知るはずもなかった。

「あのっ……。」

アタシが口を開けば淡々とした抑揚のない小さな声が返ってくる。

「……何。」

疑問系ではなく、何かこれ以上を抑制するような口調。
その抑制とは逆に再びアタシの膝小僧は脈と一緒に痛みを刻み出した。

「痛っ……。」

反射的に片目を瞑る。瞑った側の皮膚が引っ張られ、頬の傷にも刺すような痛みが広がった。
再びアタシは頭を擡げる。

(あーあ。最悪だ。転んだ上に勘違いされて怒られた……。)

小さな溜息と引き替えに思った言葉を吐き出す。そしてもう一度先生の顔を見上げた。

先生は不機嫌な顔のままアタシを見下ろしたままだった。その顔に掛かる柔らかな前髪が風に揺れて一重の瞳が露となる。





……感じたのはその一瞬だった。





色素の薄い茶色の瞳が眉間に皺と一緒にアタシを見つめている。
透き通る硝子のように曇りのない綺麗な瞳だ。
そして余りにも透き通り過ぎて、その底まで見えてしまいそうな――。

「……怪我。」

先生は独り言のようにポツリと呟くと視線をアタシの顔から下へと移した。膝小僧を見ているんだろう。
しかしアタシにはそんな言葉は耳に届いていなかった。先生の瞳から目が離せなくなっていて、何故か不安とも言うべく冷たい風がアタシの身体の中でぞわりと吹く。
どこかで見たような、いつか感じたようなわかるようで思い出せない感覚。でも決して反らせない感覚。





「……痛いの?」

気が付けば先生の顔は不機嫌ではなく無表情に戻っており、視線が同じ位置に置かれていた。
痛いか、と問われアタシは何故かと言う顔でもしたのだろう。アタシが気が付く前に先生に指を指されていた。

頬を伝う涙の筋を上から下へと。

「……れ?あれ……?」

痛くて泣いている感覚は全く無くて、戸惑いながらアタシはその伝う涙を手の甲で拭うしかない。
静かに伝う涙から零れ落ちる涙に変わり、アタシは益々困惑した。

(な、なんで?別に子どもじゃないのにこんな涙……。)

キュッと口を結び、ひたすらスカートへと落ちていく涙の粒を追う。自分でもわからない涙の意味。

「……痛いの?」

同じ質問を先生は痛くて泣いていると思っているだろうアタシに空気のように投げる。
アタシは首を横に振りながらも何も答えることが出来なかった。嗚咽寸前の何かが喉に詰まっていたからだ。

同じ視線の薄茶色の瞳に問う。

――先生、貴方の瞳の奥には……。





「……全く、面倒。」

先生は肩に猫を乗せたまま立ち上がると、アタシに待てのジェスチャーをしてその場をそっと離れた。空気は揺れない。





――先生……。
先生の瞳の底はまるで底なし沼のように澄み切っていて、何もないかのようだよ……。
空っぽの無の薄い茶色の硝子玉を嵌め込んだかのようで……。

何もそこに映ってはいなくて、それは先生自身も知らないのかもしれない。





遠くからガラガラと耳障りな音が近付いて来る。
そういえば先生は待てと手で指示だけ出してどこへ行ったのだっけ?

アタシは近付いて来る物音を待ちながら、あの一瞬に見た先生の瞳のことを無自覚ながらに想っていた。





透けたの向こう側

(それは見ているようで、まるで見えていない……。)
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