不機嫌白衣と不器用セーラー








小出高校、旧校舎。
煉瓦造りの洋館風の建物は、聞くところによると築百年とも言われている。要するに年期が入っていて、壁を這う蔦がそれっぽさを助長している。

アタシ、こと新入生佐伯志乃は正にその旧校舎の前に小さく呻き声上げていた。
動こうにも立ち上がれずに足掻いているのである。

(入ってみても大丈夫かな。でも部室はここにあるってチラシで見たし……。)

――と、入部を考えていたとある部の部室がこの旧校舎にあると聞いて足を踏み入れて次の瞬間であった。

ツンッと右の爪先を何かに行き先を阻まれて、前に進む勢いを持ったままのアタシは静止する術を知らず。時は遅そしとは正にこういう事だ。
そのまま浮かれた気持ちのまま前へと転げたのだった。

蛙が潰れたの如し、アタシは自分が大の字になって倒れたことを後で知る。





「……いたたた。まさか段差があるなんて、」

そこまで気が浮きだっていたのだ。
僅かに5センチ程の低い段差に負けたアタシは擦り剥いた膝小僧にハンカチを当てながら、段差を睨み付けた。
痛みで勝手に滲む涙に膝に滲んだ血がぼやけて更にハンカチを押さえる手に力を込めた。

(……痛い。)

顔を歪めたところで今は放課後だ。
もう移動教室のある授業はないし、旧校舎に部室を持つ部活も活動が始められている。通り過ぎる物影はない。
何階だろうか。少しだけ音の外れたトランペットのメロディーがアタシの耳に遠く響く。

チクッと一瞬、頬に刺すような感覚を覚えて指を滑らせてみれば刷毛で履いたような赤いラインが浮かび上がった。
ハンカチの反対面で頬を押さえてみれば判子のように擦り傷が赤く印された。
どうやら頬まで擦り剥いたらしい。

ズキンズキンと脈に合わせて送られる膝の痛みの信号に頭を擡げながら耐えた。

(誰も通らない……。)





どの位、その場の壁に背中を凭れ掛けていただろうか。

――ニャー……。

吹奏楽部の練習曲と共にどこからか、猫の鳴き声が聞こえた気がした。

(……猫?)

まさか、敷地内にペットの持ち込みは厳禁である。されど野良猫でも入ってくるような学校ではないのだが。
些か気になって顔を上げてみる。
すると――。





「ニャー……。」

何故か茶トラの小柄な猫がアタシの目の前から歩いて来た。
尻尾は然も自由気儘に左右に揺らしながら、警戒する様子もなくアタシにどんどん近付いて来る。

一体、どこから来たのか。そして何故アタシに近付いて来るのかアタシは混乱していた。

「お前、どこから来たの?見付かったら大変だよ?」

反射的に伸ばしたアタシの手をその猫はペロリと舐めた。ザラッとした感覚と少しだけ痛みから解放された気がして、頭を撫でてやった。
人見知りをしない猫だ。でも首輪をしている訳でもなく、飼い猫と言う訳でもなさそうだ。

「ニャー……。」

小さな猫の甲高い鳴き声にアタシは笑顔になった。ズキンズキンと脈に合わせて送られる痛みの信号を押さえながら、その小さな頭を撫で続ける。
滑らかな毛並みは気持ちが良い。

「……ありがとね。でも見付からないうちに逃げた方が良いよ。」

アタシは廊下側の窓を下から指差す。抱き上げて逃がしてあげたいけれど、それは今は不注意による怪我によって叶わない。

「ほら、人がいないうちに、」
「ニャー。」

アタシが逃げろとジェスチャーをすればするほど猫はアタシに擦り寄って来る。真ん丸の頭をアタシの腰に擦り寄せて目を細めてしまった。

(あーあ。)

「……見付かっても知らないぞ。」

もう半ば猫の逃走を助けるのも、自らの怪我の助けを求めるのも諦めて、勝手気儘に別の生き物のように動く尻尾の先を掴んではスルリと解いた。

「ニャー。」
「はいはい、ニャー。」

アタシが再びその猫の尻尾に触れた時だった。目の前に影が現れたことに気が付く。
影は動くことなく、確かにアタシたちを見下ろしていた。
影の天辺から徐々に上部へと視線をゆっくり上げる。

と、そこには白衣を纏った男の人が無表情で棒立ちをしていた。クシャッとした柔い髪は色素の薄い茶色で陽が差せば透けるようだった。気配は感じさせないのに、一重の目だけがしっかりとこちらを見ている。

どうやらこの高校の教師らしかった。
両手はくたくたになった白衣のポケットへ入れられ、視線はアタシと隣にいる猫に向けられる。

(見付かった!)

アタシは慌てて擦り寄って来るのを止めない猫を背中に隠す。無駄な行動だとはわかっていても咄嗟の行動とは不思議なものである。

「あ、あの……、この猫迷っちゃったみたいで、その直ぐに校舎から連れ出しますから。だから許してやって、」
「……して。」
「……へ?」
「……その猫、返して。」

その白衣を着た先生はアタシと逆の言葉をアタシに返した。
そして思い切り眉間に皺を寄せると今度は猫にボソリと声を掛ける。

「……野良。」
「ニャー。」

その一言でアタシの後ろにいた猫はスルリと背中から身体を出すと軽々と白衣を着た先生の肩の上に飛び乗る。

(……何なの、一体。)

呆けるアタシに白衣を着た先生が向き直ると一言言い放った。

「……勝手に人のもの……触られるの気分悪い。」
「……!」

アタシと先生の間に温い春の風が通り抜けてゆく。
先生のくたくたな白衣とアタシの胸元の白いスカーフだけが無言の中ただ揺らめいていた。





不機嫌白衣と
不器用セーラー


(第一印象、最悪。)





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