彼女の顔の痕が語る









「ただ今ー。」

アタシは必ず部室に入る際にはそう挨拶している。何故と問われても回答に狼狽してしまうのだが、『帰ってくる場所』として無意識に植え付けられたと思われる。
先に来ていた二人が声を揃えてアタシの挨拶を返した。

「お帰りなさーい。」

かんなちゃんは紅茶の茶葉缶を二つ手にして、交互に見やり、今日はどちらにしようか検討中だ。
紫ちゃんは一冊の本を開いていたかと思うと、気になった部分があったのだろう。手元に積み重ねた本の中から一冊を取り出して何かを調べている。

別々の行動をしながらも、同じ温かい返事が返って来ることにいつも幸せを感じていた。





「あ、今回は評論も部紙に載せるんだよね。紫ちゃん、誰か決めた?」
「今、このある中から検討中。」
「かんなちゃんはもう決まったの?」
「ええ。まだ評論に手はつけてはいないけど。」

そっかぁと空気の中に吐き出して、アタシはいつもの定位置に腰を下ろした。斜向かいに座る紫ちゃんの目は本の選別に真っ直ぐ向かっている。
アタシも紫ちゃんの積み上げた本を上から下へと視線を流したが、歴史物だからか、難しい単語に直ぐリタイアをした。
自分が評論する本とまだ出逢うことが出来ずにここ二、三日、第二図書室に籠っているが宝の中の今の宝を見付けられずにいる。





うううと頭を抱えて唸るアタシにカップが差し出された。ホッとするアールグレイの香りがアタシの顔を上げる。

「まあ、今は取り敢えずお茶にしましょ……って、志乃ちゃん!?」
「かんなちゃん、大きい声だしてどうし……って、志乃ちゃんがどうした!?」

驚きを上げる二人の声にアタシだけが『へっ?』とポカンと間抜けに口を開ける。
何に驚かれているのか。
目を真ん丸にして不思議そうに顔を覗き込む二人にアタシも顔を接近させ首を傾げた。

「何かあるの?」

二人は同時にアタシの顔を指差し、その答えを教えてくれた。

「土!志乃ちゃんの右頬に土が着いてる!」
「何処で一体着けて来たの?旧校舎まで来るのにグラウンドは突っ切らないはずよ?」

かんなちゃんの一言に一気にここへ来るまでの道程を遡って、知らぬ間に身体中の熱が顔に集まった。

「……や、やだ。何で……。」

アタシは誤魔化すようにタオルハンカチで右頬を拭ったが、かんなちゃんと紫ちゃんの目の付け所は別の場所へと既に移動していた。

「志乃ちゃーん、心当たりあるの?」
「そうねえ、何でか顔も真っ赤に染まっちゃってるのよね。」
「!」

アタシは反射的に両頬を手で隠す。これでは隠し事をしてます、と肯定しているのも同然だ。
でも全て自分のコントロールが出来ない反応であり、行動であった。

じっと見詰められる二人の四つの瞳に嘘は通用しなくて、況してや嘘など吐くことなど出来なくて。
ゆっくりと。ぽつりぽつりと。話せることから。
椎名先生とのこれまでの経緯について話しをした。勿論、部活の前に旧校舎の裏庭に訪れていることも。





「そうだったんだ、椎名先生?知らない先生だけど、意外だね。」
「……え、そう?」
「そうね、第一印象が最悪の時点で次は近寄ろうとしないと思うけど、何かあったの?」

アタシは二人から視線を外して机の宙にそれを漂わせた。
あると言えばある。
あの彼の目に嵌め込んだ透き通り過ぎる瞳の奥底に何も映らない現状をどうしても放って置けなかった。

「……うん。先生のね、瞳の奥に……何も……映ってな、ってあれ?」

話始めた瞬間だった。
ポロッと大きな涙の粒が一つ机に落ちて跳ね上がった。
ポロポロと意識に関係なく涙は勝手に落ちる。
哀しさや侘しさなど一切なかったのに。

「……もういいわよ、志乃ちゃん。話してくれてありがとう。」
「きっと志乃ちゃんが先生の何かに共鳴したんだな。」

ぽんぽんと優しく頭と背中をあやすように撫でられるかんなちゃんと紫ちゃんの手にアタシの涙は少しずつ落ち着きを取り戻して行った。





話が一段落着いた所で紫ちゃんが話の延長線上なんだけれど、と断りを入れて言葉を切り出した。

「ところで椎名先生ってどんな先生?うちの生物は担任の逢坂先生だからさ。」
「あ、わたしも逢坂先生だから椎名先生は知らないわ。」
「えっと、くたくたの白衣を着て髪がぼさぼさで気配が全く無くて……。」
「……志乃ちゃん、ちょっと待った。すんごくそれ心配なんだけど。」

紫ちゃんのストップのサインが入る。確かに他に形容しようがあるのかもしれなかったが、アタシのボキャブラリーではそれが精一杯であった。
考えあぐねた上──。


「じゃあ、見てもらった方が早いかも。多分裏庭にいるから。」

アタシはかんなちゃんと紫ちゃんの手を引いて廊下の迄まで連れて行く。
そして案の定、花壇の前に座り込んでいた椎名先生を見付けた。
ああ、やっぱり上から見てもくたくたの白衣にぼさぼさの頭だ。
小さな笑いが自然と零れてしまう。

「あそこにいる白衣着た人が椎名先生だよ。言ったまんまでしょ?」

窓から下を指差すとかんなちゃんと紫ちゃんが『ああ!』と同時に声を漏らす。
アタシは椎名先生と一緒にいるところを二人に見られていることを知らないので不思議そうに二人を見詰め返したが、二人は笑顔で首を横に振るだけだった。





彼女の顔の痕が語る

(あの時に見たのが『椎名先生』だったんだな。)
(志乃ちゃんが嬉しそうに笑っていた相手だから大丈夫ね。)
(……形容は志乃ちゃんの言う通りだがそのままでいいのか?)
(……また次には違う形容になるわよ、必ず。必ずね。)
日常 かんな 志乃 なの 紫1 
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