そして花は再び咲いた









暗い中、何だか熱くて、息苦しい。
……ここはどこ?
ねえ、椎名先生……──





重い瞼を開けば、そこには見知らぬ景色が瞳に映った。
清潔感のある白い天井に、ベージュのカーテンを取り巻く無機質なアルミのカーテンレール。
そして鼻腔を通過したのは消毒液の香りだった。

ゆっくり瞬きをしているとシャッと勢い良くカーテンが開けられる。視線だけそちらへ映せば、そこにはにっこりと養護教諭の眼鏡を掛け、一つ髪を括った結城さと子が顔を覗かせた。

「佐伯さん、気分はどう?」
「……え、と。」

結城の問いに志乃は自分の置かれた状況下を理解出来ないでいた。
気が付いたらここに自分がいて、そもそも何故自分がここにいることから立ち返らなければならない。

「……あの、アタシは一体……?」
「あらやだ。覚えてないの?貴女、ずっと雨の中にいて熱が出て運ばれたのよ?」

結城の言葉に志乃は自分の記憶をゆっくりと遡る。
雨の音、冷たい雨粒、目の前の倒れたクロッカス、溢れる涙、ビニール傘を差した白衣の人の姿


──椎名先生……。

「……あ、椎名……先生……。」
「思い出した?そう、椎名先生が貴女を運んで来たのよ。こんなときに留守にしててごめんなさいね。」

結城はそう言うと、志乃の横たわるベッドの端に腰を掛けて、そっとその白い手を志乃の額へと伸ばした。
そして、うんと軽く頷く。

「……あの、椎名先生……は、大丈夫……でしょうか……?」

声が掠れた上に力が入らず、上手く話すことが出来ない。しかし雨に打たれのは椎名も同じで今は目の前にいない彼のことが気にかかる。
すると、ぽんぽんとお腹の辺りを掛け布団の上から叩かれた。

「まずは佐伯さんの体調が先よ。熱が38度越えてるんだから、もう少し寝てなさい。後は制服が濡れてるからこれに着替えた方が良いわね。手伝うから脱ぎなさいな。」

結城から渡されたのは学校の体操着であった。
着替えを手伝われるのは思春期真っ盛りの志乃としては羞恥心極まり無かったが、一人で起き上がるのがやっとの今はどうこう言える立場ではない。

「はい、バンザーイ。」

結城は何処かしら志乃の着替えを楽しんでいるようにも思えた。でも志乃はそれに素直に従う。
素肌に空気が触れて、ヒヤッとする感覚に身体を震わせた。それに合わせて背中に悪寒が走り、顔へ熱が送られる。

「……もう少し休んだら家まで送って行くから、今日はもう寝ていなさいね。」
「……はい。」

志乃を制服から体操着に着替えさせた結城は制服を一度叩くと、にっこりと志乃の方へ笑って振り返った。

「椎名は大丈夫よ。貴女が運ばれた後に私が戻って来れたの。だからここの体操着に着替えさせといたわ。見せたかったわね、あの姿。」
「……椎、名?」
「あっ、ごっめーん。私普段彼のこと呼び捨てなのよ。生徒の前では宜しくなかったわね。オフレコで。」

ペロッと茶目っ気たっぷりに舌を出した後、内緒ねと結城は唇の前で人差し指を立ててウィンクをしてみせる。
その言葉に志乃も笑って見せた。

「じゃあ、もう少しお休み。」

シャッ。再び勢い良くカーテンが閉められた。カーテンの向こうから鼻歌が聴こえる。
志乃はその安心する音を頼りにもう一度眠りに着いた。





志乃が学校を休んでから三日目。

椎名はいつものように裏庭にて花壇を弄っていた。次は何の種を蒔こうか、夏へ向けての準備がその小さな箱庭の中でなされていた。

クロッカスの花は枯れていた。
志乃の育てたクロッカスと同じ事象が椎名の箱庭でも起こっていたのだ。
それは自然な姿だと椎名は知っている。
志乃がただ知らなかっただけの話。





そう言えば、と軍手で土の感触を確かめながら椎名はふと思う。
佐伯志乃はあの後からどうなったのだろうか。
結城が保健室へ戻ってから屈辱を味わったことに一人心の中で文句を垂れていたが、あれから彼女の姿は裏庭で見掛けない。

まあ、生物学的に考えても風邪のウィルスの潜伏期間や免疫が回復するのを考えてもきっと学校自体を休んでいるのだろう。

そして弄んでいた土を眺めて、はたと思う。何故自分が他人のことを──佐伯志乃のことを──考えなければならないのだ。

志乃のあの日の雨の中の泣き顔を脳裏から振るい払うように椎名はぐっと土を力を込めて掘り起こす。

そんな時だった。





タンッ……。
裏庭の端から軽い足音が響いて、椎名は一瞬動きを止める。そして瞬きをすることなく目だけを横に流す。

この音には聞き覚えがある。
この気配には感じ覚えがある。

「ニャーン!」

野良が嬉しそうにその足音の主まで真っ直ぐに飛んで行った。
久しぶりに頭を撫でて貰えて、もっとと甘える野良を見やる。小さな手のひらに濃紺の制服、ボブカットの女子生徒。
幾分、線が細く見えるのは病み上がりだからであろう。その女子生徒は足元に野良を引き連れながら椎名の方へ近付いて来た。





「……今日は一体何の用事?」

もう恒例のような質問を椎名は女子生徒に投げ掛ける。
女子生徒の唇が弧を描いて、その横で毛先が揺れた。

「……椎名先生、この間はありがとうございました。今日はそのお礼を言いに来ました。」
「……別に。アンタを介抱したのは結城先生でしょ。」

くふくふと志乃は笑う。

「はい。体操着に着替えさせた後、家まで送ってくれました。」

体操着と言う単語に椎名の肩が一瞬だけ揺れる。

「……でも運んでくれたのは椎名先生だったから。」
「……別に。」
「アタシも見たかったなあ、先生の体操着姿。」
「なっ……何でそれをっ……。」

志乃は満面の笑みで内緒です、と唇の前で人差し指を立ててウィンクをしてみせた。
冷静さを一瞬だけ欠いた椎名は罰が悪そうに手にはめていた軍手を取ると、地面へとわざと叩き付ける。

「あ、駄目ですよ。物は大切に扱ってくださーい。」
「……煩い、人の気も知らずに……。」
「え、何ですか?聞こえなかった。」

志乃は屈んで落ちた土まみれの軍手を拾い上げる。

「……別に。」

椎名は志乃から手渡される軍手を丸めてくたくたの白衣のポケットに突っ込んだ。

「気になるんですけど……。
「……別に。知らなくて良い。」
「アタシが良くないです。」
「何で?」





「ニャアー。」

そんなやり取りを見ながら、野良がもう一度嬉しそうに鳴いた。





これが少しずつ二人の日常に溶け込まれて行くのである。
知らない間に二人の間に許された距離を、さて何と呼ぼうか。





そして花は再び咲いた

(花の色はいつ時も変わるが、それがまたいと美し。)
日常 かんな 志乃 なの 紫1 
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