![]() | 彼女の涙の跡を辿る |
その日は朝から空に灰色の分厚い雲が掛かっていて、気分もどこか肺が圧迫されているような感覚があった。 何か嫌な予感がアタシの身体を巡っていた。 「はあ、はあっ。」 駅から駆けて漸く正門まで辿り着いた。徒歩七分の距離がこんな遠く感じたのは初めてだ。 そのまま肩で息をしながら真っ直ぐ旧校舎の裏庭へと急ぐ。 アタシの上の雲は今にもゴオッと大きな音を立てて蠢き出しそうであった。 「……あっ!」 駆けた先で待っていたのは花弁を地面に付けて横たわる黄色と白の二輪のクロッカスだった。 お互いに寄り添いながら、無言でアタシを出迎えた。花先が僅かに傷んで黒ずんでいる。 嫌な予感はしていた。 ここ二、三日のクロッカスの変貌ぶりは目の当たりにしていたから。 椎名先生に相談をしたかったけれど、それは出来なかった。何故ならこの花は自分自身で責任を持ち、育てる約束だったのだから。 「……何で?肥料が駄目だった?アタシの気持ちが足りなかった?」 もう目を醒ますことのないだろうクロッカス達にアタシは花弁を擦りながら、問う。 当然ながら枯れた花は何も応えてはくれないし、何も見せてはくれない。 ──アタシが無力だったから、クロッカスを枯らせてしまったんだ。 気が付けば目に熱いものが込み上げて勢いをつけて地面に滑落して行った。 そんな涙を与えてももうクロッカスの花は目を醒まさない。 「……ごめん、……ごめ……なさ……。」 アタシはとても大切な物を一つのみならずもう一人の存在を失ってしまったようにクロッカスの前に蹲って何度も謝った。 もう時は遅い。 枯れた現実はそのまま戻る訳がなかった。 どれくらい泣いていただろうか。 頬に冷たい雫が落ちてきて、いよいよ雨が降るんだなと思った。 直ぐに本降りになり、制服が肌に貼り付いて気持ちが悪かった。 ただそれ以上に目の前のクロッカスを死なせてしまった自分が気持ち悪かった。 ザーザーザーザー。 音はどこまでも雨の足音ばかり。 「……な、何してるの?」 僅かに裏返った声にアタシはゆっくりと振り向いた。 ザーザーザーザー。 後ろにはビニール傘を差した椎名先生が立っていた。 アタシの顔はもう涙の筋か雨の跡か分からなくなっていた。 もう自分でも涙が流れているのかすらわからないでいた。ボブの髪と前髪が顔に貼り付いて、アタシは先生を真っ直ぐ見上げる。 そんなアタシの姿に先生は僅かに驚いたようで、細い目が見開かれる。 アタシをみている──。 「……泣いてるの?びしょ濡れだけど?」 先生はそのままゆっくり腰を落として視線をアタシに合わせた。 透き通り過ぎる瞳がアタシを見ている。 嘘を吐くことすら、況してや謝ることも許されないかもしれない。 「……先生……。ごめんなさい……。」 ザーザーザーザー。 アタシは先生に向かって深く頭を下げた。毛先からは髪に含み切れなかった雨粒がぽろぽろと落ちて行く。 ザーザーザーザー。 「……何のこと言ってるの?」 ザーザーザーザー。 「……クロッカス、育てるって約束……したクロッカス……が……。枯れ……枯れちゃっ……。」 言葉にした途端、再び瞳が熱く滲んだ。 ザーザーザーザー。 「…………。」 ザーザーザーザー。 先生は暫く無言だった。 アタシは暫く声を殺して泣いた。 ザアッ……。 ふと濡れた頭に似つかわしくないほんのりと温かい何かが触れた。 人の手のような、でもその間に何かを挟んでいるような。 気が付けば椎名先生がアタシの頭に軍手をはめた手を置いていた。水分が軍手に吸いとられてゆく。 「……それ、当たり前の事。」 「……えっ、」 意外な言葉にアタシは俯いていた顔を上げ、もう一度先生の瞳を見る。 そこに怒りの色は全く無かった。 「……花には咲ける期間が決まってる。でも花が全てではない。種を蒔いて土に還る種もあれば、これから栄養を貯めて来年に備える球根の種もある。」 いつもより先生は穏やかでその瞳は涙で滲んで奥の奥までは見えなかったけれど、灯りが灯っているような錯覚に陥る。 「……クロッカスはこれから来年に向けて栄養を蓄える準備をする。」 「……じゃあ、また来年には……?」 「……あれだけしっかり咲いたんだ。また咲くでしょ。」 ポンッと水をたっぷり含んだ軍手で軽く頭を弾かれて、アタシは何とも言い難い気持ちに胸を塞がれて、もう一度だけ熱い涙を落とした。 ザーザーザーザー。 雨は今日は止んでくれそうにない。 でも大地の恵みとなって草花たちを潤す。 彼女の涙の跡を辿る (……来年、また一緒に見られるかな。二つのクロッカス。) |