![]() | 被験者と検査者 |
過去にあったことを無かったように蓋を閉めても、気になる言葉から気を反らしても、自分以外の人間から目を背いても容赦なく陽は昇る。 眠気眼の状態で周りを見渡せば、ここが自宅のアパートでないことをぼんやり把握する。 どうやらまた研究室へ泊まってしまったようだ。 まあこのまま勤務に支障はないので気にはならない。 どうせいつものくたくた白衣にボサボサの頭だ。白衣の下に何を着てようと誰も気に止めないだろう。 ソファーで一晩を明かしたので身体中に痛みが走るが大したことはない。裏庭出ればどうせ直ぐに忘れる。 今何時だ? 仮置きの歯ブラシに手を伸ばし口を濯いだ。荒々しい科学的な味が口一杯に広がり、洗面台へと吐き出す。 この歯磨き粉はどうやら合わないらしい。今日1日嫌な予感のフラグ。 時計は午前5時を回ったところだった。 大きく欠伸と伸びをすると、少々早いが野良の朝御飯を持って裏庭へと出た。 朝の空気は冷えていてとても澄んでいる。肺一杯に満たしてもまた次から次へと新たな空気を求めたくなる。 横隔膜を最大限に引き伸ばしてから息を吐いた。頭がスッキリとする。 「……野良、ご飯だぞ。」 その声に待ってましたと言わんばかりの顔で桜の木の向こうから、野良がやって来た。音もなく風のように真っ直ぐと駆けてきて、まず俺に甘える。コイツがご飯を食べる前の習慣だ。 「気持ちいいか?」 「ニャア。」 「独りぼっちはやっぱり寂しいのか?」 「ニャア。」 野良が俺の手を鼻でツンと上に押しやると、その撫でていた指をざらついた舌で舐めた。 何だか俺が野良に慰められているようで居心地が悪くなる。朝の澄んだ空気はとうに肺から消えていた。 「……何だ、俺のことだとお前も言うのか?」 「ニャッ。」 キャットフードを早々に平らげ、口の周りを舐めながら野良は断言的に応える。 野良に何が分かるんだ。俺が野良を睨み付けると平然と顔を洗っていた。 尻尾が自由自在に動いている。こんな時の野良はとてもリラックスしており、またその態度は素のものであった。 生物の素の姿には人間は勝てない。彼らは遥かに人間より敏感であり、繊細だ。 ここで俺が否定をしたら今度は猫パンチを喰らうのだろう。 俺は頭を抱える。 どうすればいいんだ。 「あ、野良ちゃん。おーはよ。」 歌うような声が土弄りをしていた背後から聞こえた。腕時計を確認すればもう7時半になっていた。 今日も佐伯志乃がクロッカスの世話をしに裏庭へと立ち入って来た。 この時間に通常ならば俺は学校へはまだ来ていない。珍しいものを見たかのように、確認の高い声が飛んでくる。 「し、椎名先生!?」 ああ、歯磨き粉の嫌な予感フラグここに立ち。 当然、佐伯志乃は俺の下に野良と駆け寄ってくる。そして俺の前にしゃがみこむと大きな瞳でじっと見詰められた。 思わず、飲まれそうな大きな瞳から視線を反らすと軍手を取った。 「……今日も何か用?」 眉間に皺、声はワントーン低く、視線は明後日の方向。 「いえ、この時間にいるのを初めてお見掛けしたので、つい……。」 「……つい、でなら近寄らないで。」 「でも先生、昨日と同じ洋服だから学校へ泊まったのかと心配にもなりました。」 その言葉に俺は瞬時に白衣の襟を掴んで前に合わせる。居心地が悪い。 誰も見ているはずのない隙を佐伯志乃は何故かこうして一歩ずつ入って来るんだ。 俺は佐伯志乃の被験者か。 佐伯志乃は俺の検査者か。 観察される側なんて想像しただけでヘドが出る。 元々検査者は俺の仕事なんだ。 「……ご気分大丈夫ですか?先生、低血圧?」 一点を凝視していた視界にひらひらと小さな手が舞う。佐伯志乃に呼び掛けられていたことに漸く気付く。 彼女は昨日俺に投げた真っ直ぐで考えたくもない無駄な時間を与えた質問をしたことなどなかったかのように、俺のことを見上げていた。 気を付けなければ、後一歩でその小さな手に触れられそうだった。 「朝御飯買って来ましょうか?それとも持ち合わせのカロリーメイトで良ければ……。」 「……要らない。朝は食べない主義。」 「……そ、そうですか。でしゃばって、ごめんなさい……。」 昨日の真っ直ぐな勢いはどこへ行ったのだろうか。眉を下げてしょんぼりとした表情を彼女は作る。 何故、佐伯志乃がこんな表情をするのか正直俺にはわからなかった。 でも何か質問の応えに繋がりそうな感覚が胸に膨らんでゆく──。 別に質問の応えを出す必要は俺にはないが、何かこれは得られそうだ。被験者として。 検査者は誰かって、そんなもの当然自分以外の何者でもない。 裏庭に侵入することを少しは認めよう。その代わり被験者となってもらう。 ──佐伯志乃、アンタの与り知らないところで──。 被験者と検査者 (こんな関係に理由を付けて、) |