主語をどちらとも選べなくて |
『寂しかったからと言った時の主語はクロッカスですか?それとも先生自身ですか?』 佐伯志乃の質問が鼓膜にも脳にもこびりついて離れなかった。 そもそも彼女の質問の意図は何なのか。 そしてそれに対していつものようにあしらえずにその場に硬直して応えられなかった自分は何なのか。 研究室の天井を見上げて考える。 一層ソファーに預けた体が沈んだように感じた。 土足のまま脚を組み替えて片手で視界を遮る。 ──寂しい。 そんなものはいつ抱いた感情か、遥か昔に忘れてしまった。 確かに置き去られたように一輪だけ咲いている花、迷子の仔猫、巣から落ちてしまった鳥の雛、繁殖能力の無くしてしまった単細胞、群れることが出来ずに成長しない微生物、それらを見掛けた時に思うことはある。 ──きっと寂しいんだろう。ならば寂しくない方法はあるか──。 それが自分のこれまでの生物へ対する行動であった。 そこに自分の感情は存在しない。 俺は好んで孤独を選んでいるのだから、その感情とは対極である。 しかし何故佐伯志乃はそこに主語を求めようとしたのだろう。さしてや『クロッカス』が寂しかったから、と言う解釈ですんなり理解出来るではないか。 そこに遇えて『俺』と言う主語を持ってきたこと自体理解し難い。 ──彼女は不思議系統の種族なのだろうか(人のことは言えないが)。 彼女に出逢ってから、必ずどこかでペースを乱される瞬間がある。 それは実に不快であり、不要であり、俺にとっては意味のないことばかりだ。 ──では何故ここまで考えなければならない? 心臓が胸の奥でゆっくりと響き、芯から温かい何かが身体中を浸透してゆく。 ハッとして腕を退け、目を開いた。 そうだ、別に考える必要なんてないじゃないか。それはこれまでと同じ、またこれからも同じことである。 「……時間の無駄。」 ポツリと意味なく呟きながら身体を起こす。 沸きだしていた珈琲をカップに注ぎながら、俺はルーシーの隣に座ると淹れたての珈琲を啜る。 そして机に置かれた顕微鏡を除きこんだ。 今朝裏庭で採ってきた土の中にいる微生物が細やかに動いているのがわかる。 そこで漸く自分の気持ちが収まる筈だった。 なのに──。 『……じゃあ主語はクロッカスだけでいいんですね?わかりました。』 佐伯志乃に良く似た声が俺の脳内に響き渡った。本当に佐伯志乃の声だったかはわからない。 何故ならば彼女はこの夜の研究室にいるわけがないのだから。 ただ脳内にちらつく彼女はにこやかに手を振って、その輪郭がぼやけながら霧散してゆく。 その姿が消える瞬間であった。 「……ちょっと待って。選べない。選べないし、分からない。……分からない。」 タンッと力なく拳を膝に預けた。頭を凭れると重力で一気に引き下げられる。 頭も体も、心臓も、気持ちも──。 ……寂しいって何なんだろう。 脳裏に消え行く佐伯志乃を追い掛けながらそう思った。 主語をどちらとも選べなくて (本当は寂しかった、そう言いたいのに自分が気付いてくれない。) |