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 宿儺の反転術式で生き返った悠仁の特訓に付き合うようになって数日。私と悠仁は、悟が用意した訓練場で拳を突き合わせていた。特訓のおかげか、夜蛾先生の呪骸での呪力コントロールも板につき、あとは実戦でうまく使いこなすだけのところまで悠仁は成長した。



「悠仁、呪力が流れちゃってる。もう少し拳に留める感じで」

「こう?」



 悠仁は元々体術のセンスもあるし、飲み込みも早い。もう私が相手では物足りないんじゃないかとも思うけど、約束の時間に悟は来なかった。彼が遅刻するのはいつものことで、こうして肩慣らしに私と稽古するのも、もう日課になっている。

 それにしても、私もずいぶんと高専の先生らしくなったものだ。以前の学校で働いていた頃は、こうして教え子と組み手をすることになるなんて想像もしていなかった。悟との特訓のおかげで勘はほとんど取り戻しているし、久しぶりに使う術式にも慣れた。悠仁を守れなかった不甲斐なさに打ちのめされたりもしたけれど、まあそれなりに、充実していると思う。平和だった日々が恋しくないといえば嘘になるけど、高専での生活は、やっぱり私に合っていた。



「そろそろ休憩する?五条先生来ないし、美月ちゃんちょっとキツそうだし…」

「うん、お願い…」



 かれこれ2時間くらい動き続けているだろうか、悠仁の体力についていけなくて、私の膝は小さく震え出していた。汗も顎を伝って、少し古くなった畳に染み込んでいく。そのまま崩れるように床に倒れ込めば、悠仁は用意していたタオルを差し出してくれた。



「あぁー疲れた…」

「いつもありがとね、付き合ってくれて」

「いやいや、何の力にもなれなくて…」

「そんなことないよ。美月ちゃんの教え方、すげえ分かりやすいし」



 隣に腰を下ろして汗を拭う悠仁は、爽やかに笑った。おじいさんを失ったばかりで突然呪術界にやってきたというのに、悠仁はとても前向きだ。おまけに優しくて気がきいて、誰かさんにも見習ってほしい。そんな悠仁には私も励まされてばかりで、疲れなんてすぐに吹き飛んでしまう。



「そういえば、さ」



 同じように畳の上に転がった悠仁は、少し聞きにくそうに口をモゴモゴと動かした。視線だけを悠仁に向けると、彼は天井を見つめたまま「あー…」「その」と何度も濁しては頬をかく。



「なに?言いにくいこと?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど、こういうのってあんまり聞かない方がいいのかなって…」

「そこまで言ったらもう聞いてるようなもんじゃん。なに?怒らないから言ってごらん」



 なんだか気になって起き上がると、悠仁も上体を起こして私に向き合った。タオルで口元を隠しながら目を逸らした彼は、実はさ、と小さな声で呟いた。



「この前、って言っても結構前なんだけど。……五条先生が美月ちゃんの部屋から出てくるの、見たんだよね」



 以前もどこかで聞かれたような質問に、今度は私が「あー…」と声をもらす番だった。生徒たちに見られないように気をつけてはいたけれど、やはり充分ではなかったらしい。野薔薇だけでなく、悠仁にまで見られてしまっていたとは。野薔薇は添い寝フレンドなんて可愛い言い方をしてくれたけど、いい年した男女が何度も夜を共にするなんてやましさ満点だ。弁明しようにもどれも言い訳がましい気がして何も言えずにいると、悠仁は開き直ったのか、身を乗り出して私を見つめた。



「ほら、美月ちゃんって前の学校で社会の先生と付き合ってたじゃん?そっちとはどうなったのかなって…」

「…なんで悠仁がそんなこと知ってるの?」

「有名な話だったよ。2人は結婚間近だって」



 あまりに突然な話に頭がクラリとする。確かに私は、歳の近い社会科の教師と付き合っていた。付き合い始めたのは3年くらい前だったから、まあそれなりに結婚を意識したような話も出ていなかったわけじゃない。2人の関係を生徒たちに話したことなんてないのに、一体どこから漏れるのか。興味津々といった様子で目を輝かせた悠仁に、いまさら隠しても意味がない気がして、私は深いため息を吐いた。



「あの人とは、もう別れたよ」



 そう、3年もの付き合いを続けた彼に、私は別れを告げた。もちろん突然の別れに彼が納得するはずもなく多少揉めたけれど、学校を辞めてしまえばすぐにそれも落ち着いた。私は、普通の日々と一緒に、彼を捨てたのだ。



「何で別れちゃったの?」

「それは…」



 悠仁の鋭い質問に、少しだけ口籠る。別れた理由は、自分でもあまり考えないようにしていた。あの日、想像もしていなかった悟との再会が、私を狂わせてしまった。久しぶりに聞いた私の名前を呼ぶ声に、今まで感じていた普通の幸せがなんでもないことに思えてしまう程、心臓が苦しくて仕方がなかった。彼のことはちゃんと好きだったし、結婚したいと思えるくらいには愛していた、はずだった。でもそんな感情も全て飛び越えてしまうほど、私にとって悟の存在は大きくて。



「呪術師はいつ死ぬか分からないもの。一般人と付き合うなんて、無理だよ」



 本当のことは、言えなかった。言いたくなかった、の方が正しいかもしれない。心の奥で燻っている思いを口にしてしまったら、もう後戻りが出来ない気がして。私は悟とどうこうなるつもりはない。術師として、少しでもこの力を役立てるために戻ってきたのだ。もう二度と、この世界で苦しむ人を出さないために。



「五条先生とも、何にもないからね!」



 この話は終わり!と悠仁が持っていたタオルを取り上げると、悠仁は「えー」と不満げな声を出しつつも渋々と立ち上がった。そろそろ悟が来る頃だ。これからの本格的な特訓に備えて準備しなければ。私も立ち上がって両手を組んで天井に伸ばすと、タイミングよく扉を開く音がした。



「お待たせー!やってる?」

「遅いよ先生!もうウォーミングアップばっちり」



 いつもより大幅に遅れてきた悟は何食わぬ顔で悠仁の肩を叩くと、「はいこれ差し入れ」とコンビニの袋からジュースを取り出した。コンビニ寄る暇があるなら早く来てほしいものだけど、これが五条悟だと知っているから今更責める気にもなれない。ありがとう、と受け取ったペットボトルはもう温くなってしまっていた。別にそれくらいのことで文句を言ったりしないのに、悟は私をじっと見つめたまま視線を離さなかった。



「なに?」

「…ん、別に何も。悠仁の相手してくれてありがと」



 いつもとは違う貼り付けられたような笑みに違和感を覚えたけれど、ポンと頭に乗せられた手はいつも通り優しい。悟の言葉にこくりと頷けば、悟は一度さらりと髪を撫でて、悠仁の元へ向かった。なんだか今日は妙に大人しい気がしたけれど、それがどうしてなのか推測できるほど、私は悟のことを知らなかった。






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