酷く気になるあの子の事

 最近の俺の朝は早い。薄暗いリビングに出てカーテンを開けて、まだ昇りきっていない陽の光を部屋に取り入れる。ほんの少し明るくなった室内を見回せば、まだぼんやりとしていた頭が少しマシになった。キッチンだけ電気を付けて冷蔵庫から卵と昨日買っておいた鮭を取り出して、ひとつひとつ丁寧に調理していく。紫さんは朝は和食派だから、魚の焼き具合と、だし巻き卵は何度も練習して作れるようになった。次第に帰りが遅くなってくる彼女の為に出来るのは、朝ゆっくり寝かせてやることくらいだ。



 俺の父親がいなくなって、津美紀の母親も帰ってこなくなってから1年ほど経った頃。突然現れた五条さんは、俺が高専に入って呪術師になることを条件に、俺と津美紀の生活費を高専から引き出してくれた。おかげでお金に困ることはなかったけれど、まだ幼い俺たちだけで生活していくのは大変だった。そこで、五条さんが連れてきてくれたのが紫さんだった。



「この子、禪院紫。君と同じ禪院家の子だよ。今日から紫が君たちの面倒を見てくれるから」



 五条さんの隣で不服そうな顔をしていた紫さんは、「よろしく」とだけ言って俺たちが生活する新しい家まで案内してくれた。それから、今までの古いアパートとは違う都内の大きなマンションで、俺と津美紀、紫さんの3人で暮らすようになった。紫さんは高専に通いながら構築術師としても働いていて常に忙しそうだったけれど、文句を言いながらもいつも親切にしてくれた。最初は同じ禪院家の人間だから親切にしてくれるのだと思っていたけれど、そうではないと知ったのは、ついこの前のこと。五条さんに聞いた話だから本当かどうかはわからない。それを本人に聞く勇気も、俺にはなかった。



 朝食の準備を終えて紫さんの部屋へ向かう。どうせノック程度では起きないから、そのまま扉を開けてベッドで布団に包まって眠っている紫さんの肩を揺さぶった。起きてください、と声をかければ、少し唸る声が聞こえて長い睫毛が揺れる。ぼんやりと目を開いてその視線で俺を捉えると、掠れた声で俺の名前を呼んだ。



「……恵。おはよ」

「朝飯、出来てますよ。食べるでしょ」

「うん、食べる」



 まだ眠たそうな目を擦りながら起き上がった紫さんは、跳ねた毛先もそのままにのそのそとベッドから降りてリビングへと向かう。その後に続きながら用意していた朝食を並べて冷たいお茶を注げば、紫さんはありがとうと一口グラスに口をつけた。向かいの席に座って寝ぼけながらも朝食を口に運ぶ紫さんを見るのは、もう日課になった。彼女は、食べ方が綺麗だ。家を出たとはいえ育ちが良いせいか、一つ一つの所作が丁寧で品がある。それとはチグハグな寝ぐせとよれよれのTシャツ、手入れを忘れて色素の薄くなった毛先が、この人も普通の人間なのだと再確認させる。いつからか、綺麗に整えられた姿よりも、こうして無防備に見せる紫さんの姿の方が好きだと思うようになった。色のない唇も、緩い襟元から覗く鎖骨も、俺しか、知らない。最初は思春期特有の女という生き物への興味かとも思った。けれどもクラスメイトの女子にはそんな感情は湧かないし、津美紀にも、胸が苦しくなったりはしない。これが恋なのだと、自覚するのにあまり時間はかからなかった。



「恵、荷造りは終わった?」

「大方は。明日業者が取りに来るみたいです」

「明日から高専に住むのか。寂しくなるね」

「紫さん、一人で大丈夫ですか?」

「私、恵たちが来るまでは一人で暮らしてたんだけど」

「……そうでした」

「恵こそ、寂しくて泣いちゃわない?」

「子ども扱いしないでください」



 ついこの前中学を卒業して4月から高専に通うことが決まっている俺は、いよいよ明日から高専の寮に住むことになっていた。それは五条さんにお世話になった時から決まっていたことだけれど、いざ目の前に迫ってくると、少しだけ、寂しい。約7年、一緒に暮らしてきた紫さんを一人残していくのは心配だ。もちろん彼女は大人だし一人でも生きてはいけるのだろうけど。仕事に熱中すると睡眠や食事を忘れることも多々あるし、お人好しさに付け込まれていいように使われることも多い。五条さんが一番のいい例だ。



「高専は忙しいだろうけど、たまには帰ってきてね」

「休みができたら帰ります。いろいろ心配だし」

「恵は心配性だなあ」



 ふふ、と笑みを零した紫さんは最後の一口を押し込むと、「ごちそうさま」と手を合わせて席を立った。空になった食器をキッチンまで運ぶ姿を目で追いながら、この前五条さんに聞いた話を思い出す。



「紫はね、君のお父さんの愛人だったんだ」



 あの五条さんが言うことだから、どこまで本当の話なのかは分からない。俺の父親はまあ言うなればロクデナシで、津美紀の母親と再婚はしていたけれど、愛人の一人や二人いてもおかしくはない、と思う。そもそも俺はあの人のことをよく知らないし興味もない。でも紫さんをずっと見てきて、二人が出来ていたというのはあり得なくもない話だと思える瞬間がある。最初、俺の顔を見た瞬間。驚いたような、泣きそうなような、それでいて憎むような視線。突然愛人の息子の面倒を見ることになるなんて、嫌悪しかなかっただろう。それでも親切にしてくれた辺り、お人好しだしあいつに惚れた弱みなのかもしれない。一緒に暮らしている間、男の影なんて微塵もなかった。ずっと、あいつを想い続けているのだろうか。



「紫さん」



 食器を洗おうとする彼女の後ろに立って、逃げられないように両腕をシンクの淵につく。驚いて振り返った紫さんは、俺の腕の間で首を傾げて「恵?」と俺の名前を呼んだ。正直、この想いは伝えないでいようと思っていた。育ててくれた恩もあるし、10も下の男になんて興味がないだろうと思っていたから。それでも、五条さんからその話を聞いて、どうしようもなく自分の気持ちが湧き立つのを感じた。“嫉妬”なのか“期待”なのかは分からない。とにかく、この人を捕まえたいと思った。まん丸に見開かれた紫さんの目を見つめて、いつの間にか自分よりも低くなったその頭に手を伸ばす。そのままするりと頬まで手を下ろして、柔らかいそれを撫でた。俺の言葉を、彼女はどう思うだろうか。今まで築き上げてきた関係が壊れてしまうのだろうか。でも離れ離れになってしまう今、この気持ちをを自分だけに押し込むことなんて出来なかった。



「俺、紫さんが好きです」










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