僕の手を取る運命なんだ



 夕食も後片付けも終えて、ソファに並んでテレビを眺める。高専に行く前は日課だったこの時間も、今では貴重な休日の楽しみだ。このところ忙しくてなかなか帰って来れなかったから、紫さんに会うのも数週間ぶり。会う前から話したいことがたくさんあったのに、夕食の時からほとんど会話が進まなかった。理由はひとつ。紫さんの様子が、おかしいのだ。



「紫さん、明日は休みですか?」

「うん、一日お休みだよ」

「じゃあ外でご飯食べましょう。この前五条先生に教えてもらった美味い店があって…」

「そ、うだね。うん、行こっか」



 二人がけのソファで、不自然に空いた二人の隙間。出来るだけ隅に身を寄せている紫さんは、俺と目が合うとすぐに逸らしてしまう。笑顔だって、どこかぎこちない。あのデートに行ってから、紫さんはずっとそわそわと落ち着かなくて、なんか変だ。



「紫さん」

「えっ、な、なに?」

「……もしかして、この前俺が言ったこと、気にしてますか?」



 なんとなく、心当たりはあった。それはつい先日、紫さんに電話をした夜のこと───…










 長引いた任務がようやく終わりベッドに倒れ込んだのはもう24時を過ぎた頃。窓の外は真っ暗、廊下も最低限の灯りだけを残して静まり返っている。カチカチと時計の秒針が進む音だけが響いて、今日の終わりを告げている。1日が、長かった。朝から授業に出て、予定通りの任務に出て、さあ帰ろうかというときに緊急の連絡でスマホが震えた。等級は高くないものの厄介な呪霊が相手で、全てを片付けたのがつい先程。本来なら積もった疲労ですぐに寝付けるはずなのに、今日はやたらと目が冴えている。理由は、ひとつしかなかった。



『体調はどうですか?最近忙しそうなので心配です。余裕ができたら声聞かせてください』



 夕方頃に届いていた、紫さんからのメッセージ。体調を心配する内容や近況のやりとりは今までにも何度もしている。できるだけ定期的に連絡もとるようにしていた。それでも初めて見る一言に、帰りの車でも気持ちが乱れて仕方がなかった。

 声聞かせてって…電話くれ、ってことだよな。

 今まで、紫さんからそんなことを言ってくれたことなんて無かった。時折メールをくれることはあっても、電話をするのはいつも俺から。あのデート以来、紫さんの心境に少しでも変化があったんだろうか。そう思うと、迷惑かもしれないと思いつつもスマホを滑る指は止まらなかった。



『……もしもし』



 スマホを耳に押し当てて数コール目、少し掠れた声が耳の奥にじんわりと響いた。



「すいません、起こしちゃって」

『ん、大丈夫だよ、起きてたから』

「嘘でしょ。声で分かりますよ」

『…ふふ、うん、嘘。寝ちゃってた』



 いつもよりほんの少し低い声に、シーツが擦れる音が混ざり合う。俺も目を閉じて布団に潜れば、まるで紫さんが隣に寄り添っているような、そんな気がした。



『最近忙しそうだね。ちゃんとごはん食べてる?』

「食べてます。睡眠も大丈夫です」



 よかった、と耳元で紫さんの声がする。こうして夜遅くに電話をしたことなんてないし、そもそも急用がなければ電話をかけたりはしなかった。お互い忙しい身だから、電話よりもメールの方が都合がよかった。だからこうして、電波を介して紫さんの声をじっくりと聞くのは新鮮だ。

 俺だって、話したいことはたくさんある。食事や睡眠に関しては俺より紫さんの方が疎かにしがちだし、他に変な虫がついていないかも心配だ。仕事は順調かとか、元気にしているかとか、聞きたいことはたくさんあるのに。俺の中にはたった一つの感情だけが渦巻いていた。



「早く、会いたいです」



 電話の向こうで、すぅっと息を呑む音が聞こえる。忙しくなればなるほど、どうしようもなく紫さんの存在が恋しくなる。あの柔らかい笑顔が見たい、小さな手に触れたい。今、紫さんはどんな顔をしてるのだろう。困った顔か、それとも少しは照れてくれてるんだろうか。直接確認できないのがもどかしい。



「今度帰った時、抱きしめてもいいですか」











 あの日、結局紫さんからの返事はもらえなかった。曖昧なまま電話を切って、そのまま今日が来てしまったのだ。今までずっと一緒に暮らしてきてこんな風にワガママを言ったことなんてなかったのに、紫さんに気持ちを伝えてから、自分の感情を抑えられなくなっている。特にあのデート以来、紫さんがちゃんと『俺』を見てくれている気がして。



「そりゃあ、あんなこと言われたら気にするよ」

「それは、少しは意識してくれてるって思っていいんですか?」



 紫さんは、俺を家族だと言った。そもそも恋愛対象としても見られていなかったことを考えれば、こうして意識してもらえるだけでも大きな進歩だ。何を言っても何をしても子供扱いされていた時に比べれば、こんな数センチの距離なんて気にもならない。俺の言葉に、紫さんは膝の上のクッションをぎゅっと握りしめた。



「…別に、今までだって意識してなかったわけじゃないよ。考えないようにしてただけ」

「今は、違うんですか?」

「うん。ちゃんと…恵と向き合おうと思ってる」



 今日、初めてちゃんと紫さんと目が合った気がする。俺はずっと紫さんのことが好きで、ずっと見てきたつもりだった。それでも、最近は初めて見る表情ばかりだ。真剣な顔も、照れる顔も、泣き顔も、嬉しそうに笑う顔も。知らない顔ばかりで、目が、離せなくなる。そっと手を伸ばしてクッションを握りしめていた手に触れると、ピクリと揺れるものの抵抗はされない。見た目よりも、握ってみると小さな手。ずっと触れたくても触れられなかった紫さんが、今はこんなに近くにいる。



「やっぱり、抱きしめてもいいですか?」

「……ハグくらい、なら」



 そっと距離を詰めて、紫さんの肩に触れる。その肩を抱き寄せれば、紫さんは俺の腕の中にすっぽりと収まった。今までだって何度も触れたことはあるけれど、いつも勢い任せだったから、こうして改めて抱きしめると緊張する。思ったよりも肩は細くて、柔らかくて、温かい。居心地が悪そうに彷徨っていた紫さんの手は、少し迷って、恐る恐る俺の背中に触れた。



「恵の心臓、すごくドキドキしてる…」

「緊張、してるんで」

「恵も緊張とかするんだ」

「そりゃ、好きな人に触れてたら誰だって緊張しますよ」

「…………」



 元々赤かった紫さんの耳が、ボッとさらに赤く染まる。俺が知る限りだと、紫さんは俺の父親を想い続けていたから男性経験は少ないはず。前に手を繋いだ時も、紫さんはガチガチに固まっていた。紫さんがこんな風に照れる姿なんて、一緒に住んでいた時は想像もしていなかった。髪を撫でればふわりと甘い香りが漂って、頭の奥を刺激する。ああ、たまらなく、愛おしい。



「…キス、してもいいですか」



 少しだけ体を離して頬に手を添える。上体を屈めて目線を合わせれば、紫さんは戸惑ったように瞳を左右に揺らした。赤くなった頬が、熱い。えっと、と言葉を詰まらせる紫さんを待ちきれず、彼女の額に口付ける。そのまま瞼に、頬に、少しずつ移動していくと、紫さんは俺の腕をぎゅっと握りしめた。



「ね、恵、もう…」

「ダメですか?」



 少しだけ潤んだ紫さんの瞳が、俺を見上げている。赤く染まった頬が扇状的でたまらない。困ったように眉を下げた紫さんはパクパクと口を動かすばかりで、声が出ないようだった。



「答えないならしますよ」



 正直、嫌がられると思っていた。前回キスをした時紫さんは抵抗していたし、いくら向き合ってくれても、キスはさすがに断られると思っていた。それなのに、紫さんが、覚悟を決めたようにきゅっと目を閉じたから。



「──好きです、紫さんが、心の底から」



 そっと体を寄せて唇を重ねる。あの時は悔しさと悲しさでいっぱいだったのに、今はただ幸せが心の中を満たすばかりだった。






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