悲しい涙は似合わない人

「私が現場に、ですか?」

「はい。五条さんが急な任務で引率できないので、代わりに禪院さんに頼むように、と…」



 珍しく部屋のインターホンが鳴ったと思ったら、尋ねてきたのは高専で補助監督をしている伊地知さんだった。高専とのやりとりは基本メールか電話なのにどうしたのかと思ったら、今から五条さんの代わりに任務の現場に出向いて欲しいと。そもそも私は構築術師であまり戦闘向きではなく、そういう任務を避けて呪具修繕の依頼を主に受けていたというのに。突然の招集に疑問を抱いていると、伊地知さんは申し訳なさそうに頭を下げた。



「伏黒君は2級とはいえ入学間もないため、単独行動ができません。私も他の方に引率をと思ったのですが、五条さんがどうしてもあなたがいいと聞かなくて…」



 申し訳ありません、と悪くもない伊地知さんが何度も頭を下げる。まあなんとなく、そんな予感はしていた。あの五条さんが私の実力を認めているとは思えないし、何年も現場に出ていない人間を突然今日の今日で送るなんて不自然すぎる。恵が彼にどんな話をしたのかは知らないけれど、またいらぬ世話を焼いてくれたらしい。はあ、とついたため息に伊地知さんはさらに頭を下げた。



「…わかりました、行きます。これから準備するので、少し待っていてください」



 ぱあっと顔を明るくした伊地知さんは、マンションの入り口に車を停めてありますので、と言うと足早に去っていった。その背中を見送って扉を閉めると、まだ何もしていないのにどっと疲れが押し寄せてくる。

 恵に面と向かって告白をされてから、会うのは初めてだ。毎日当たり障りのない連絡を取ってはいるものの、正直どう接していいのか分からずにいる。恵は私に甚爾さんを忘れさせると言ったけれど、私は、忘れたくないしきっと忘れることなんて出来ない。それどころか、恵を見ていると甚爾さんを思い出してしまうわけで。



「はあ…」



 動きやすい服に着替えて荷物をまとめながら、もう今日何度目か分からないため息をついた。こんなにごちゃごちゃした気持ちのまま、呪いの相手なんてできるんだろうか。










 マンションの前に停まっていた黒いセダンの後部座席のドアを開けると、奥から「おはようございます」と聞き慣れた声が飛び込んでくる。車に乗り込んで隣を見れば、少し機嫌の良さそうな恵がタブレットを片手に私を見つめていた。これから命懸けの任務だっていうのに、そんなに嬉しそうな顔をされると、戸惑ってしまう。おはよう、と挨拶だけを返して渡されたタブレットに目を通すと、ゆっくりと車が走り出した。

 現場は車で一時間ほどの場所で、私が代理で派遣されるだけあって難易度は低めのようだ。それこそ入学したばかりの一年生の引率、程度の力が求められているんだろう。確かに五条さんがいく必要もない。だからと言って人選に不満がないわけではなくて。



「……先に言っとくけど。私は役に立たないと、思う」

「そんなの分かってますよ。ハナから紫さんに戦わせるつもりはありません」



 すました顔で言われて、むっと眉間に皺がよる。確かに、私は御三家や高専への貢献を考慮して準一級という名ばかりの等級をもらっているだけで、実践では役に立たない。基本は武具の提供、最悪でも後方支援だ。恵より等級は上でも、実力は恵の方が圧倒的に優っている。それに、彼は私が持ち得なかった禪院家相伝の術式を受け継いでいるのだから。



「別に、私だって闘えないわけじゃ…」



 タブレットを見つめながら唇を尖らせると、横から伸びてきた恵の指先が、私の髪を耳にかけた。驚いて隣を見ると、いつもよりも優しい顔で微笑んでいる恵がいる。そこにいるのは紛れもない恵で、甚爾さんとは似ても似つかなくて。



「紫さんのことは、俺が守りますから」



 大きくて分厚い手のひらが、ぽんぽんと私の頭を撫でる。大丈夫ですよ、なんて声が柔らかくて、心臓が痛いくらいに跳ねた。私は、こんな恵、知らない。



「……そ、ういうこと言わないでよ。伊地知さんに誤解されるでしょ」

「別にいいじゃないですか」

「よくない」



 誤魔化すようにタブレットを押し付けると、恵は「冗談です」と笑いながらそれを受け取った。なんだか久しぶりに見る笑顔の恵に、気持ちが落ち着かない。弟みたいな相手に、何を動揺しているんだろう。心なしか頬が熱い気がして窓を開けると、涼しい風が前髪を揺らす。久しぶりの任務に家を出る時は緊張していたけれど、気づけばそんな緊張も無くなっていた。ちらりと隣を盗み見たら、恵は何事もなかったかのように真剣な顔でタブレットを見つめていた。

 恵が家を出てからそんなに長い時間が経ったわけじゃないのに、いつの間にか彼は成長して、以前よりも呪術師らしくなっている。少しずつ、確実に、私の手を離れて大人に近づいている。それが少し寂しくもあって、同時に嬉しくもあった。これからきっともっといろんな経験を積んで、新しい世界を見て、恵の中で私という存在が小さくなっていく。親離れ、という意味では喜ばしいことだし、当然のことだ。それでも、今こうして私を見つめる恵の優しい視線が変わってしまう日が来ると思うと、どうしようもなく苦しい。



「あと5分ほどで現場に着きます」



 伊地知さんの言葉にごくりと唾を飲み込むと、シートに投げ出していた私の手に、恵がそっと手を重ねた。



「大丈夫だから。肩の力抜いてください」

「分かってるよ…」



 やがて伊地知さんは車を路肩に停めると、周りの人通りを確認しながら車を降りた。人払いはすでに終えてあったのか、それとも最近流れる噂のせいなのか。辺りはほとんど人がおらず、しんと静まり返っていた。

 駅からだいぶ離れた住宅街の中にひっそりと姿を現した公園。子供のためにと造られた遊具は所々が錆びてしまっている。木々で囲まれたその公園は昼間でも薄暗いせいか、子供から見れば不気味に写ったらしい。噂が噂を呼び、次第に膨れ上がり、いつの間にか呪いが集う場所になっていた。



「窓の報告では、呪霊は2級程度とのことです。影も多いので伏黒くん一人でも問題ないかとは思いますが、何かあった場合は禪院さんもサポートをお願いします」

「サポートって…呪具振り回すくらいしか出来ませんけど」

「まあ、禪院さんの派遣は形だけですので」



 それでは、帳を下ろします。伊地知さんが印を結んでそう唱えると、空がみるみるうちに夜へと変わっていく。久しぶりに見るその光景に、冷や汗がたらりと首を流れた。帳を下ろしただけだというのに、一瞬で空気が冷たくなる。

 葉の擦れる音だけが響く公園に、ひたり、と私たちではない誰かの足音がした。恵の視線を合図に持ってきた刀を鞘から抜くと、ソレは姿を現した。

 短い足に、長い腕。顔と胴体がほとんど一つになった、口の大きなソレ。ぎろりとこちらを睨む大きな目玉が、ゆっくりと私の姿をとらえた。その瞬間、地面を蹴って高く跳び上がった呪霊は私を目掛けてその長い腕を振り下ろした。



「紫さん、伏せて!!」

「……ッ」



 恵の声に反射的にその場にしゃがむと、いつの間に呼び出したのか玉犬が一匹、私と呪霊の間に割って入って噛み付いた。その隙に恵は私の腕を引くと、呪霊から距離をとってもう一匹の玉犬を呼び出した。



「少し離れててください。俺がやります」



 守るように私の前に立った恵の背中は想像していたよりも大きくて、一瞬、時が止まったみたいだった。うん、と素直に頷いて一歩後ろに下がると、恵は安心させるように小さく笑って呪霊に向かって走り出す。

 恵が強いことは、知っていた。禪院家相伝の術式を持っているし、入学早々2級を与えられた天才だ。そんなことは、分かっていたけれど。実際に恵が戦っている姿を見ると、少しだけ心臓の鼓動が速くなる。恵は、強くて、頼もしい。私が思っていた以上に。

 数度の攻防を繰り返して、呪霊は呆気なく弾け飛んだ。時間にして15分ほどだろうか。私はただ立って見ていただけ。それなのに、恵は制服を汚すこともなく、呪霊を祓ってしまった。



「……お疲れ様」



 呆然と恵を見つめていた私は、口が乾いてその一言しか出てこなかった。少し照れたように振り返った恵は、「まぁ、弱かったんで」と小さな声で呟く。すぐに駆け寄って地面で玉犬に食べられている呪霊を見ると、もうほとんど体が砕けて消えかけていた。これでしばらくこの公園は安全だ。役に立たなかった刀を鞘に納めて、恵の方を向く。すると、恵は目を見開いてこちらに手を伸ばした。



「紫さんッ…!!!」



 視界の端で残っていた呪霊の腕が動いたかと思うと、ドンと体に衝撃を受けて私はそこまま地面に倒れ込んだ。ドスっと嫌な音が聞こえて顔を上げると、恵が私に背を向けて立っていた。その肩から、真っ赤な血がハラハラと流れ落ちてくる。一瞬なにが起きたのか分からず、ポタポタと地面に広がる血を見て頭が真っ白になった。



「……っ恵!」



 弾かれたように立ち上がって恵の肩を支えると、一緒に地面に座り込んだ。正面に回り込むと、恵の肩にはまだ残っていた呪霊の腕が深く突き刺さっている。もう本体がないせいかその腕もボロボロと崩れ落ちていき、ポッカリと空いた穴からはまた新たな血が溢れ出てきた。



「待ってて、今止血するからッ」

「いい、紫さんの手が汚れます」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」



 持ってきた鞄の中にあった小さなハンカチで傷口を抑えるけれど、すぐに真っ赤に染まって抑えていた右手にも血が滲んでいく。もう片方の手で伊地知さんに連絡を入れて、傷口をグッと強く押すと恵の眉間に皺が寄った。幸い腕が動かないということはないようだけれど、傷は深く出血も多い。すぐに病院で手当してもらわないと。



「………そんな顔、しないでください」



 血のついた恵の手が、私の頬に触れた。いつの間にか私の頬は涙で濡れていて、傷を抑える指がカタカタと震えている。は、と短く息を吐くと、膝の力が抜けて私も一緒に地面に座り込んだ。

 怖かった。恵が死んじゃうんじゃないかって。甚爾さんみたいに、突然いなくなってしまうんじゃないかって。



「ごめん、恵…痛かったよね……」

「大丈夫だから。言ったでしょ、紫さんは俺が守るって」



 恵は私の手に自分の手を重ねると、車を降りる時と同じようにきゅっと握った。真っ直ぐに私を見つめる恵の視線が熱い。今のは冗談じゃないって、ちゃんとわかる。

 遠くで伊地知さんの慌てた声と足音が聞こえる。ここにいると早く伝えなくちゃいけないのに、唇が震えて声が出ない。まるで恵の視線に縛られたみたいに、動くことができない。俺は側にいますから。恵の声は聞こえないのに、確かにそう言ったように感じた。






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