真っ赤な空




 夏の暑さが少しずつ和らいで肌寒い風が吹くようになったころ、絶え間なく入っていた任務の予定に少しずつ空きができて、ようやく私たちは繁忙期を終えた。授業のない日は丸一日寮で過ごす日も増えたが、久しぶりの休日に暇を持て余してしまう。この夏は、いろいろなことがあった。例年よりも多忙な中で、友人を二人も失い、心には未だぽっかりと穴が開いている。ふとした瞬間にその穴の存在を思い出しては、心細さを感じた。



「また、地方に行くの?」

「ん。東北で何件か入ってる。一週間くらいかかるかも」

「一週間……」



 夜、悟の部屋を訪れると、彼はスーツケースに必要な物を詰め込んでいる最中だった。日本に三人しかいない特級のうちの一人である悟は、繁忙期が終わっても忙しさはあまり変わらないようだった。というのも、特級の残り二人が、一人は失踪した夏油傑で、もう一人が九十九さんという海外をぷらぷらと逃げ回っている人らしく、任務に当たれる特級が悟一人しかいないからだ。一級や準一級でも対処が難しい呪霊はすべて彼の元へと集まり、毎日日本を、時折世界を飛び回っている。なかなか会う時間すら作れなくて、寂しくないと言ったら嘘になる。けれど、彼の助けを必要としている人が大勢いるのだから、私が我儘を言える立場にないこともよく分かっている。隣にしゃがみ込んで荷造りを手伝うと、悟は手を止めて私を見た。



「僕がいない間、一人で大丈夫?」

「子供じゃないんだから、大丈夫だよ。七海もいるし」



 夏油さんがいなくなってから、悟の一人称と話し方が変わった。まだ矯正中ということもあり時折元に戻ることもあるが、前よりだいぶ話し方が柔らかくなった。いつの日か、夏油さんにアドバイスを受けたらしい。悟は夏油さんのように、後輩から慕われる人間になろうとしていた。それほど彼の中で夏油さんの存在が大きかったことを考えると、本当は今でも彼が心配で堪らない。それでも本人が夏油さんのことを口にしなかったから、私も何も聞かなかった。すっと手を握られて視線を上げると、サングラス越しに青い瞳と目が合う。真っすぐと見つめてくるその瞳に吸い寄せられるように、気づいたら私たちは口づけていた。離れてしまう前に刻みつけておこうと食らいついてくる悟の唇に、体の力が抜けて私たちはそのまま床に転がった。軽く打ち付けた後頭部が痛むけれど、悟はお構いなしに絡みついてくる。すぐそこに積み上げられていた衣服が倒れて床に散乱して、荷造りの途中だったことを思い出した。まって、と悟の胸を押して抵抗を示せば、少し不機嫌な声が上から降ってきては、邪魔だったサングラスを外す。直接青い瞳に見つめられるとほんの少し意思が揺らいだけれど、動かした足に当たるスーツケースの感触に私はもう一度彼の胸を押した。



「荷造り、しないと」

「そんなの後でもいいよ。こっちが先」

「だめ。もう遅いから私も部屋に戻らないと…」

「泊まっていけばいいじゃん」

「でも、そしたら離れるのが辛くなるから、やだ」



 これ以上触れてしまえば、行かないでと言ってしまいそうで怖かった。彼は呪術界を、人類の命運を握る存在で、私なんかが留めてしまっていい存在ではないから。「続きはまた今度ね?」と諭せば、一瞬眉を寄せて考えるような素振りをした悟は、渋々と私の手を引いて起き上がると乱れた衣服を整えてくれた。「分かったよ」とサングラスを掛けなおして、散らばった服をもう一度畳み直してスーツケースに詰め込んでいく悟は、拗ねた顔をしている。それが可愛くもあり申し訳なくもあって、「ごめんね」と謝ると彼は「別に」と言って少し乱暴に私の頭を撫でた。



「帰ってきたら覚悟しとけよ」



 そう言ってもう一度顔を寄せて唇をくっつけた悟は、おやすみ、と優しく呟いた。強引なようで何だかんだ私の気持ちを尊重してくれる悟に思わず笑みが零れる。私はおやすみと返しながら、悟が帰ってきたら一日お休みをとって、たまには彼の我儘をたくさん聞いてあげようと密かに考えた。











 いつも通り机を並べて授業を受けていた私たちの教室に補助監督の人が訪ねてきたのは、悟が地方へ行ってから四日目のことだった。こうして突然任務が入ることはよくあるから大して驚きはしなかったが、彼の発した言葉に私と七海は目を丸くした。



「今回は向坂さん単独の任務です。正門に車を持ってくるので、支度をして待っていてください」



 確かに何度も2級レベルの呪霊となら対峙したことはあるが、私の階級は未だ4級で止まっている。単独行動は普通2級からしか認められていないため、私が一人で任命されるのは初めてのことだった。補助監督の人は上からの指示なので、とそれしか答えてくれず、早々に教室を後にした。突然の出来事に胸の中には不安が立ち込める。4級が単独で任務に当たるなんて、異例中の異例すぎる。繁忙期ではないこの時期に呪術師の手が足りないということは考えにくかった。実際、七海は任務の予定が入っておらずこうして一緒に授業を受けている。それなのに、なぜ私が任命されたのか。



「さすがに変だ。嫌がらせの件もあるし、一度五条さんに相談した方が」

「悟には言わないで。一気に何件も回るって言ってたし、邪魔したくない」



 心配して提案してくれた七海を、私は強く止めた。ただでさえ忙しく、実家のことでも頭を悩ませているのに、これ以上悟には心配をかけたくない。それに確証もないのに、五条家を疑いたくなかった。2級呪霊なら何度も祓ったことあるから、と無理矢理笑顔を作ると、七海は不快そうな顔を隠すこともなく私を睨みつけた。本気で言っているのか、と彼の目が訴えている。もしかしたら私の実力を上が認めてくれて、階級関係なく任務を割り振ったのかもしれない。大丈夫だから、ともう一度念を押して、「行ってきます」と私は未だ納得していない七海に手を振った。











 崩れた建物の瓦礫の中、目を開ければよく晴れた青空が映る、はずだった。



「向坂梨央、だな」



 補助監督に連れられてやってきた廃屋には、報告通り2級呪霊が数体居た。報告と異なっていたのは、3級と4級の呪霊が十数体ほど居た点。これくらいの調査ミスはよくあることだけれど、私は自分の力に驕っていたのだ。2級呪霊は祓ったことがあるから私一人でもなんとかなる。そう思っていたけれど、よくよく考えてみれば私は今まで2級呪霊と一人で戦っていたわけではなかった。誰かに手助けをしてもらいながら、それがたとえ力不足の後輩でも、少なからず複数人で相対していたのだ。一人で戦うのと、誰かと共に戦うのとでは、戦況が全く異なる。私は、まだ一人で戦うには未熟だったのだ。すべての呪霊を命からがら倒し切ったころには、私は見事に呪力を失って地面に転がった。折れた足が痛い、打ち付けた頭が痛い、肺が破れているのだろうか、息を吸うとひゅーひゅーと聞いたことがない音がした。痛い、苦しい、体が熱い。真っ赤に染まる空を見上げて、早く高専に戻って硝子さんの治療を受けなくちゃ、と動けない体で考えた。そんな時砂利を踏むような足音が聞こえて、補助監督が助けに来てくれたのだと視線を向けたら、そこには和服姿の老人と、従者のような人たちが数名、私を見下ろして立っていた。



「無茶な戦い方をしたな。もう呪力がほとんど残っていない」



 血に汚れることも気にすることなく私の傍に膝をついた老人は、血まみれの私を見てハッと嘲笑った。誰、と聞きたかったけれど私の喉から声が出ることはなかった。代わりに耳障りな音がして、次第に胸が苦しくなる。コポ、と唇の端から血が溢れだした。可哀そうに、と表情とは正反対の感想を述べながら私の頬を撫でる指は細く骨ばっている。ハリを失った指先に撫でられる感触がどうしようもなく気持ち悪かった。しかし払いのけたくても私の体はぴくりとも動かない。



「まだ若い。それにその呪力量ではもう呪術師としては生きていけないだろう。命だけは助けてやる」



 老人の後ろに控えている男性には、見覚えがあった。彼は確か、悟の家に行ったときに当主の代理として私たちの相手をした人だ。怒った悟に怪我を負わされた彼は、何も話すことなくじっと私を睨みつけている。この老人は、きっと五条家の。私の額に指を充てた老人はククッと喉を震わせると、目を見開いて私を見つめた。



「五条悟のことも、呪いのことも、全て忘れろ。お前は邪魔なだけだ。さっさと消えろ」



 抵抗したいのに、酷使した体は指一本と動かない。嫌だ、やめて。そう言いたいのに唇すら動かず、次第に指を充てられた額に熱がこもっていく。すうっと何かを吸われていくような感覚が頭を支配して、視界が滲んでいった。忘れたくない。彼がくれた言葉も、彼と過ごした日々も、彼との約束も。少しずつ薄れていく意識の中で、真っ赤な空だけが目に入った。遠くで誰かが私を呼ぶ声がする。優しくて、ぶっきらぼうで、何度も何度も私を呼んでくれる。その声が心地よくて、私は目を閉じた。必死にこちらの手を伸ばして「梨央!」と叫ぶ彼は、瞼の裏に浮かんでは消えていく。その人が誰なのか思い出せないまま、私は意識を手放した。







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