62 手

朝。いつもと違って目覚ましが鳴るとすぐ起きれた。夜は緊張感もあってなかなか寝つけないような気もしたけど、いつの間にか寝ちゃってたらしい。

携帯を見るとメールがきてた。丸井からだ。



From:丸井ぶんた

今日はがんばろうな!




6時過ぎにきてた。今日はさすがに朝練はないし、ずいぶんと早く起きたんだな。あいつも緊張してんのかな。

そう、今日は合唱コンの日。あれから毎日のように練習を重ねて、ついに本番ってことだ。
緊張するけど、今までやってきたことをそのままやればいいんだ。
丸井にも、頑張ろう!と短く返事をしておいた。

朝の準備も済ませ、いざ家を出るとき、ふと弦一郎のことを思い出した。そういえば最近、お互いに朝練とかあったりで朝一緒に行ってなかった。
引退前は、毎日一緒に行きすぎてうぜーとか思ってたけど、一緒に行かなくなるとなるで……案外寂しいもんだな。うちらもとうとう親離れ子離れの時期か?

そう冗談混じりに思いながら玄関まで行くと、



「あら、早いのねぇ。おはよう。」



お母さんがいた。本物の。でかいスーツケースを持って、今ちょうど家に着いたという格好だった。



「えぇー!?お母さん!?」

「久しぶり、茜。ただいまー。」

「ちょ……、な、何やってんの!?」

「何やってんのって家に帰ってきたのよ。仕事休みとれたからね。」



よいしょ、と、玄関に重たそうな荷物を乗せた。



「お、おかえり。」

「ただいまー。…あれ?もう学校行くの?」

「うん。今日合唱コンだから。」

「へー。」



靴を脱いで玄関に上がったお母さんと入れ違いに、あたしは靴を履いた。

たぶん普通なら、「会いたかったよお母さん!」なんて感動のご対面かもしれないけど、残念ながら今のあたしにそんな余裕はなかった。時間もあんまりない。

むしろ、なんで今帰ってきたのか──?なんて不孝者だと言われても仕方ない疑問があった。



「茜、」

「なに?」



ドアノブに手をかけながら振り向くと、久しぶりに見たお母さんの柔らかい笑顔があった。



「帰ってきたらちょっと話あるから。」

「は?」

「早めに帰ってきてね。」



お母さんはまたにっこり笑うと、いってらっしゃいとあたしの背中を押した。

早めに帰ってきてなんて、悪いけどあたしは今日仁王とデートだし…、と考えながら学校までの道を歩く。
話って何だろう。少し、ほんの少し嫌な予感がする。お母さんがあんなふうに笑うとき、決まってとんでもないこと言い出すときなんだ。「お母さん別れることになったの」とか「ちょっと関西行ってくるねー」とか。

まさかとは思うけど……。

一抹の不安を胸に、学校の門をくぐった。





「よう、昨日はよく眠れたか?」



席につくと、すぐに隣の丸井に声をかけられた。朝の会まで時間はあるけど、最近丸井はすぐ席についてる。孤立地帯のようなこの一番前の席で、本当にありがたいことだ。



「うん、ばっちり。」

「そっか。…てかなんかテンション低くね?」

「え?そお?」



誤魔化してみたけど、たぶん当たってる。緊張ってのもあるし、加えてお母さんのこと。なんだか不安が一気に押し寄せてきた感じだ。



「お前でも緊張すんだな。」

「してないし。普通だよ。うん。」

「ははっ。まーミスっても気にすんな。気楽にいけよ。」

「わかってるよ。」



と言いつつ、あたしはかなり体が強ばっていた。失敗することもあるかもしれないと心配になってきた。練習中はほとんどしなかったけど、本番でいきなり…もあるかもしれない。

あれ……、なんか…急に心臓が速くなってきた。ドキドキしてきた。呼吸が荒くなってきた。



「おーい、始めるぞー。」



まもなく先生も入ってきて、朝の礼をするために席を立つ。
立ったあたしの足は、ぐらぐらした。

やばい。これ、すっっごく緊張してる?
考えてみりゃそうだ。合唱コンの伴奏なんて初めてだし。舞台で演奏したのも子どもの頃の話。あのときは緊張なんて一切なかったし。
そもそもあたしはいわゆる“舞台慣れ”してない。テニス部なんかは試合とかで身に付いた大勢の前で何かをやる度胸はあるだろう。他の部活をやってる人も。あたしは中学生になってから、たくさんの人の前で何かやるって、そういえばなかった。合唱コンの歌はその他大勢だし、失敗もなかなかしないわけだし。

そんな思いとともに、全身に寒気のような熱気のような、緊張感が駆け巡る。

先生が、今日は全力を尽くせー的なことを言ったぐらい。ほとんど頭に入ってこなかった。



「じゃ、会場に移動しろ。」



チャイムとともに、みんなバラバラと席を立ち、廊下に出ていく。



「茜?行こうよ。」



なんとか精神を落ち着けようと、まだ席に座りっぱなしだったあたしの肩を鈴が叩いた。



「う、うん。」



慌てて楽譜やら入ってる鞄を掴み、席を立った。

廊下には、他のクラスの人たちもたくさんいた。
ああ、これから合唱コンが始まるんだと、三回目だけど初めての感覚。体を走っている緊張感が、ついに指先にまでやってきた。手を握り締めるものの、微かな震えが止まらない。



「最後だねー、合唱コン。」

「…うん。」

「3年では真田君のクラスがトップバッターだよね。応援しなきゃ!」

「…うん。」



あー忘れてた。全校生徒ってことは、弦一郎も見てるんだ。授業参観だ。
弦一郎だけじゃない。柳やジャッカル、柳生に部長。赤也だって見てる。いつもはあたしが見る側だったけど、今日は見られるんだ。

おまけにうちのクラスは紅白コンビのおかげでかなり注目されるかもしれない。指揮者はなんてったって仁王だし。下手したら歓声もあるかも。てゆうか、そもそもあたしは他の仁王ファンを押し退けて伴奏することになったわけだ。もしかしたら失敗することを願ってる人もいるかもしれない。

もし失敗したら……、いや、単なる失敗ならまだマシ。最悪なのは、途中で忘れちゃうこと。今まで暗譜でなんとなくやってきたけど、よく考えたら一つ一つの音符が思い出せない。途中で止まって、入っていけるだろうか。



「茜?」

「え?は、はい!」

「もしかして緊張してる?」



もしかしてじゃないよマイフレンド。かなりだよ。今までにない緊張感だよ。

あたしはきっと、涙目になってた。



「もーしっかりしなさい!」



鈴は、あたしの両肩をギュッギュッと揉んだ。



「ミスっても止まっても、入れるとこから続き、始めればいいから。ね。」



にっこり笑った鈴は、今まで以上に頼もしい友人だった。

その笑顔で、少しばかり心が落ち着いた。



「うん…ありがとう!」



しばらくして着いた会場。校内にあるこのホールは、入り口入って正面の奥にある舞台に向かって段々と低くなってて、ちょっとした映画館のようだ。臙脂色で統一された床に壁。ライトに照らされる舞台は、本当のコンサート会場のよう。何度も来たことがあるのに、今日は初めてきたような気持ちだ。
もうすでにたくさんの生徒たちが座ってた。みんな学年クラス別に座ってる。



「3年B組はー…あっちだね。」



“3年B組”と書かれた看板を目指し、あたしと鈴は階段を下りていく。



「おー、きたきた。おせーぞ。」



うちらに気付いた丸井に手招きされた。一番通路側に座ってて、その隣には仁王もいた。見ると、仁王の隣が二つ空いてる。



「席とっといたぜ。」



丸井と仁王が奥にずれようと席を立った。ありがと…と言おうとすると、鈴が丸井の腕を掴んだ。



「あたし端っこ。茜は丸井と仁王君の間。」



そう言ってあたしの背中ぐいぐい押した。

いや!確かに仁王の隣はうれしいけど!本番前の緊張に加えて仁王の隣なんて心臓持たないから!



「なんか茜緊張してるから二人で励ましてやって。」



おまけに余計な一言を。



「何だよ、お前やっぱ緊張してんの?」



ハハハッと笑った丸井は、通路から二番目の席にすとんと収まり、あたしを奥へ通してくれた。



「そんな力まんと楽にしんしゃい。」



仁王も席をずれ、丸井との間、空いた椅子にあたしはようやく座った。



「…だって、緊張するもん。みんな見てるじゃん。」

「大丈夫だって。つーか舞台からだと逆光で観客なんか見えねーから。」

「あ…そっか。」



鈴と、二人の励ましで、あたしはさっきよりもずいぶんと落ち着いてきた。

4月初め。あたしはこのクラスは最悪だと思ってた。鈴と一緒なのはありがたかったけど、よりにもよってテニス部レギュラー二人と一緒なんて。

でも今は、この二人も一緒のクラスでよかったって本当に思う。



「えー、ただいまより──…、」



しばらくして開会のアナウンスが入り、会場全体が暗くなった。舞台に生徒会長や校長たちが上がる。

もう始まってしまう。あたしの手が再び震え出した瞬間。
その手を、ぎゅっと握り締められた。

思わず顔を向けると、暗がりでもはっきりわかる、仁王の軽く笑った顔。



「大丈夫。」



周りに聞こえないように、囁くような小さな声。



「いっぱい練習してきたんじゃし。」

「……。」

「みんなだってそう。伴奏が止まっても歌は止まらんから、失敗じゃない。」



仁王のあったかい手に包まれて、ようやく震えは止まった。



「ピアノと、俺だけ見てりゃいい。」



そしてまた軽く笑うと、仁王独特の空気を感じた。緊張感に包まれた体が、今度は別のドキドキに変わっていく。



「…ありがとう。」



泣きそうになったのは緊張感だけじゃなくて、こんなにも優しい言葉をくれたから。

ただ失敗を恐れていただけのあたしの心は、絶対に成功させたいって強い気持ちになった。

そして始まった。中学最後の合唱コンクール。

最後にして最高の思い出、作りたい。

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