51 きれいな恋と汚い心

あたしはなんてバカなんだろう。
遠くのほうからほんの少し、歓声が聞こえる程度。それでも暗く静かな、閉ざされたこの個室は、必要以上にあたしの心をどんよりさせる。

そう、あたしは今、トイレの中にいる。用を足しているわけじゃないよ。
試合を抜け出してきてしまったのだ。再び。



あのあとあたしは、何とも言えない気持ちの状態で試合を見てた。試合を見てた、というよりコートに目を向けてただけかもしれない。だって他に目のやり場がなかったし。
弦一郎と話そうにも、隣にいたから。

目をごしごし擦ってみる。
涙が溜まっているかと思ったあたしの目は、意外にもからっからだった。

出そうで出ない。



試合はまるで何も関係がない、とでも言うように、時間とともに進んでいった。
けど、ふとした瞬間だった。

仁王が、こっちを見た。ちょうどサーブを打つときだった。
何を思ってこっちを見たのか、何か感じるものでもあったのか。そこから仁王までの距離はけっこうあって、彼のはっきりとした視線はわからないはずなのに。

きっと、あの人のことを見ていた。

ここで仁王が少しでも動揺するとか、びっくりした顔するとか、笑うとか、
ほんとにちょっとでも、表情が変わったなら。あたしは逃げなかったかもしれない。

さっきから出ない涙も、このもやもやした気持ち悪い気持ちも、
“わからない”からだ。仁王が何を感じて何を考えているのかを。
このやり場のない気持ちは、あたしがまったく何も知らないから。

だからあたしは何もできない。傷ついて泣くことすら。あそこに座ってて、何度も声を出して応援しようとしたけど、出なかった。



あのとき、こっちを見た仁王は、表情を何一つ変えずに。
いつも通りのサーブを打った。
試合は何もなかったみたいに、続けられた。

目のいい仁王なら、絶対にあの人の存在には気付いたはずなのに。



弦一郎もあの人と知り合いみたいだった。そりゃチームメイトの元カノ(たぶん)だもんね。練習もよく見に来てたらしいし。きっと弦一郎だけじゃない、丸井や赤也たちだって知り合いだろう。下手したらすごく仲良かったかもしれない。
そんな人が、あたしの隣の隣にいて。
試合は何もなかったみたいに続いてて。

急に、心さびしくなった。
あたしは、そこにいるべき人じゃない気がしてきてしまって。
あたしの居場所がなくなったような―…

全然状況は違うけど、初めて部長と会ったときのことを思い出した。あのときもあたしは蚊帳の外だった。

でも、仁王がいたから。
あたしを置いていかなかったから。

今はただの、一人だ。



試合はどこまで進んだろう。
好きな人の中学最後の試合だっていうのに、あたしは何逃げ出してきてるんだろう。本当にバカだ。

ふと、あたしの手に握り締めていた部活日記を見る。短い間だけど、みんなの毎日の練習を書き留めていた。
仁王のページ。

コート上の詐欺師、相手をはめるプレー、パートナーを脅して入れ替わる、弱点を容赦なく挑発する、などなど好きなくせにあんまりいいことが書いてない。

でも、小さく書いてあった。



“自信はペテン”



字的にあたしが書いたんだろう。でも書いたような書かなかったような、そんな記憶。

この部活日記は、別に丁寧にその日のことを書いてるわけじゃなく、そのときそのとき感じたままに殴り書きしてたもの。
だからあたしがなんかのときに何となく感じて書いたんだろう。

自信って大雑把すぎて覚えてないけど。
でも、これはさっきあの先輩が言ってたことと同じ意味だろう。

あたしも同じように、仁王を見てきた。こうやって字として残ってると、それを思い知らされる。いっぱい、いっぱい、仁王を見てきた。

出会って数ヵ月だけど、いつも仁王を目で追ってた。仁王に関することならなんだって、頭やこの日記に残したかったんだ。…忘れることも多いけど。



“お前の仕事は皆の試合を見守ることだ”



急に弦一郎の声が聞こえた気がした。

そうなんだ。あたしの仕事はみんなの試合を見守ること。練習だって見続けた。だからあたしはこんなところにいちゃいけない。

そう決意すると、意外なくらい体が軽くなって。
きっと、自分のいる意味を感じることができたから。

あたしは走って会場に戻った。
いつでもあたしの心に影響を与える弦一郎のお節介さに、ちょっと感謝しながら。



戻ったあたしには、信じられない光景が待ち受けていた。

丸井とジャッカルが、試合をしていた。



「どこへ行っていたんですか?」



横から、静かな落ち着いた声が聞こえた。

柳生だ。



「柳生、え…っと、今は……、」



こんな試合真っ只中のときに試合の行方なんて聞くとは、本当に最低なマネージャー(仮)だとは思ったけど。

そんなことも構っていられないぐらい、あたしは信じられない気持ちだった。
でも柳生からの答えで、その気持ちから逃げられなくなった。

柳生は眼鏡を上げながら、変わらず落ち着いた声で答える。



「仁王君は、負けました。」



ドクンっと心臓が深い痛い音を鳴らすと同時に、丸井の噂の天才的妙技が決まった。

立海ベンチや応援団が沸き上がる。

あたしはというと、そんな歓声の的となってるコートは見れなかった。
代わりに、ベンチを見る。
仁王を、探して。

いろんな感情が頭と心を駆け巡る。

なぜ逃げ出してしまったのか、最後の試合を見なかったのか。
試合中どうだったのか。試合後どうだったのか。

ベンチに仁王はいなくて。
あの人もいなくて。
今、仁王はどこにいるのか、何を思ってるのか。

自分から逃げ出してしまったから、結局あたしは何も知らないままだった。



「私が呼んだんですよ。」



柳生が口を開いた。

何が?
白々しく聞き返せるほど落ち着いてなかった。

あたしの考えてることを見抜いたかのように、柳生は続ける。



「今日の試合のことを伝えたんです。最初は、仁王君には合わす顔がないとおっしゃってましたが。」



“合わす顔がない”

本当のところの別れ話は聞いてなかったけど、やっぱりよくない別れだったのね。柳生の言葉で確信した。

その割にはあのとき仁王は、ちっとも動揺していなかったように見えた。
それも詐欺なんだろうか。



「そろそろ仁王君を解放してあげてください、とお願いしました。」



解放?意味がわからなかった。柳生はきっと頭がいいから、何かの隠喩だろうけど。



「何もせず離れてしまえばその時は楽です。ですが、あとがつらくなる。何事もそうですが。」



あたしがいつまでたっても意味不明だと丸分かりだったんだろう。柳生はクスッと笑った。

この笑い方、ちょっと仁王に似てる。さすが入れ替わりしてるだけあるな。



「あのさ…、柳生、」

「はい?」

「仁王は、後悔とかするのかな。」



どちらに対して?

柳生に聞き返されたらどっちにしようとびくびくしたけど、さすが空気を読めるのか、聞き返されなかった。

後悔なんて単語、仁王にあるのか疑問。いろんな意味で前向きな仁王は、きっと過去は振り返っても立ち止まる人じゃあないと思ってたから。



「バネにするタイプだと思いますよ。私と似ているので。」



テニスも、恋も。
そう、付け足された気がした。

今、仁王は例の彼女と一緒にいるんだろう。
何を話して、どんな道を選ぶのか。想像もつかないけど。



「……あたしは、いやだ。」



ずいぶんと小さな声だったのに、柳生にはしっかりと聞こえたみたいで。



「誰だってそうですよ。」



タオルを、優しく頭から被せてくれた。

今日、きっと柳生はタオルを使ってない。まだふかふかのタオルは、せっけんの香りがした。柳生らしい、紳士的な匂い。

視界を遮ったタオルを捲りながら、コートを見る。

あたしの親友、丸井が試合頑張ってる。もちろんジャッカルもね。



「丸井ー!ジャッカルー!負けんなーッ!!」



やっと、あたしらしいでかい声が出せた。

そしたら丸井はこっちを見て、笑ってVサインを送ってくれた。あたしの声が聞こえたんだ。

丸井の笑った顔を見ると、出そうで出なかった涙が、やっとあたしの目を潤した。

でも零すのはまだ早い。

柳生からもらった(ちゃんと返すけど)タオルを両手に握り締め、祈るように応援する。



なんでこうなったんだろう。

あたしの仁王への恋は、ドキドキしたり、たまに不安だったり、泣くこともあったけどやっぱり一緒にいると楽しくて、きれいで、純粋なつもりだった。

そんなふうに恋する自分も、好きだったのに。

うまくいかないで欲しいと思ってる。
好きな人が傷つくことを願ってる。

あたしの恋は、あたしを汚くするんだ。



応援しつつも、仁王のことを考えながら。

時間は過ぎていった。

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