あたしは流れ出る汗をタオルで拭う。もう夕方だというのに。今年は本当に暑い。
でもそんな文句ばかりも言ってられない。明日は、全国決勝。
うちはトントン拍子に勝ち進み、見事決勝進出が決まった。
…トントン拍子ではないか。4回戦目なんかちょっとした流血事件だったもんね。…大丈夫。赤也ならかわいいから大丈夫。
「茜、」
振り返ると、弦一郎だった。
こんな暑い日はなるべく近寄りたくない。熱気漂うオッサンには。
あたしが一歩下がると、弦一郎は一歩近づいた。再び一歩下がると、不思議そうな顔をしてまた近づいた。めんどくさいやつだな。
「で、なに。」
「幸村を知らないか?」
キョロキョロと周りを見渡すけど、部長が見当たらない。そういえば、さっきから見てない。でも部長はいつもフラフラしてる。神出鬼没というか。噂をしてるとすぐ現れるというか。
「いないね。」
「明日の件で話し合いたいことがあったのだが…。」
弦一郎がもどかしそうにそう言うもんだから、捜してあげたくなった。
うちの学校は広いから、知らない場所にでも行かれたらアウトだけど。仮にも練習中。きっと近くにいる。
あたしは仕事をほっぱらかし、部長捜索にとりかかった。
―パコーン…
どこからか、きれいなボールを打つ音が聞こえてきた。
その音を辿ってみると、意外にも早く見つかった。部長だった。
体育館裏の誰もいない駐車場。壁打ちをしていた。
さすが、部長はフォームがきれいだ。他のみんなももちろんだけど、部長はまた特別。一打一打、柔らかいのに芯がある。そして力強い。
そう思った次の瞬間。
少し横に逸れた打球。
部長は追い付くことなく、ラケットを落とし、
自分も崩れ落ちた。
やばい。
あたしは思った。部長の体調がよくない。そう感じた。もしかしたら発作か何か出たのかも。
そこまでが一瞬にして頭を駆け巡り、あたしは部長のもとへ行こうとした。
でも捕まれた右腕。
振り返ると、やっぱり弦一郎だった。
あたしは近頃、弦一郎の言いたいことがわかんない。けど、この時ばかりはわかった。
“行くな”
そう言ってる。
―ガン!
部長は自分のラケットを投げつけた。
信じられない。弦一郎のそんな顔。だって部長は誰よりも誇りが高い。
「………っ…だよ、」
かすかに部長の声が聞こえてきた。
部長はしゃがみ込んで、俯いている。あたしや弦一郎の位置からだと、まるっきり後ろ姿で表情はまったく見えない。
「……何で動かないんだよ。」
次ははっきりと聞こえた。
弦一郎の、息を呑む声も聞こえた。
部長は立ち上がって、今度は投げつけてあったラケットを掴んだ。
「……離すなよ。やっとまた、握れるようになったんじゃないか…。」
部長は、ラケットを、自分の体に包み込んだ。
儀式みたいで、神聖で、祈るようで、
必死に、想いを伝えているようだった。
「……他に何も、いらないのに。」
ぽつりぽつりと零れる声は、震えていた。
部長が…、泣いてる。
「今、テニスができれば……っ、」
あたしはもう、部長を直視できないでいた。足元に目を向ける。
灰色のコンクリートにぽたぽたと、しずくのあと。
「何故、“今”なんだ……?」
弦一郎が小さく、とても小さく呟いたその言葉を最後に、あたしは涙が止まらなかった。
両手で覆っても、涙は溢れるばかり。
気付かれちゃいけないと、あたしはその場を逃げ出した。帽子を深く被り、唇を噛み締める弦一郎を残して。
部室に駆け込んだ。
机の上にあった誰の物かわかんないタオルを顔にぎゅうっと、押しつける。ああ、この香りは丸井。お菓子の匂いがするもん。
呼吸が乱れて、でも息を吸うのもつらくて苦しくて。
外から聞こえるみんなの声と、周りの声援に、さらに涙が止まらなかった。
「……うっ…うっ……!」
やっぱり、部長の体調はよくなかったんだ。だから、今までも試合に出なかったんだ。
“俺はもう病院には行かないよ”
あれは部長の決意だったんだ。
青学戦に向けての。
たった一つの試合への。
“俺もすぐに復帰するし”
“そしたら今度こそ、立海、優勝だ”
部長―……
あたしは部長のために、何かできることがあるだろうか。
あんなに苦しんでいる仲間のために。
あたしにできることはあるんだろうか。
…何も、きっと何もない。
ひどくちっぽけな自分が憎らしかった。
その後、部長は何事もなかったかのように現れた。弦一郎も。
あの後二人で何か話したんだろうか。弦一郎には聞けなかった。
あたしは、泣いて目を腫らしてしまって。丸井にえらく心配されたけど、鼻が痛かったで突き通した。ちょっと無理あるけど。
「柳。」
「何だ。」
「明日って、部長出るよね?」
「ああ。当然だろう。」
即答した柳に感謝した。
あたしがちゃんとしたマネージャーなら、ここは部長を止めるべきかもしれない。
でも、そんなの無理だ。
あんなに熱い、強い、想いを。
あたしは、否定したくない。
まぁあたしはマネージャー(仮)なので。
みんなを応援することしか、できないんだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「柳生、」
「はい?」
「今日一緒に帰らんか?」
珍しい、仁王君から誘ってくるとは。何となくですが意図は読めたので、二つ返事でOKを出した。
「〜♪〜♪」
帰り道、仁王君は隣で口笛を吹いてました。このメロディはどこか聞き覚えのあるもの。
「合唱コンクールの曲ですか?」
「ああ。最近練習しとらんから忘れそうになる。」
そういえば、その曲の伴奏は上野さんだと聞きました。結局はいろいろと繋がりがあるんですね。
部活を引退しても。
「俺、」
「はい。」
「明日試合、絶対勝つぜよ。」
「そうでなければ困りますね。」
私の分まで頑張ってください、とは言えませんでした。彼のことだから、そんなことを言ってしまえば責任を感じてしまう。
今は少し緊張しつつ、ただ勝ちたいという意欲を持つ程度がちょうど良い。
「けっこうダブルスも楽しかったのう。」
「そうですね。」
「入れ替わりもおもろかったし。」
「面倒臭かったですが。」
「……。」
「何か?」
仁王君は不満げに私を見ました。まぁ、面倒ですが相手を騙しきったときは非常に優越感に浸れましたね。
「俺、ちょっとお前さんに嫉妬してた。」
俺にないもん持っとる、と、仁王君は苦笑いした。いや、照れ笑いでしょうね。
「それは憧れです。」
そう言うと、かもな、と、また苦笑いした。
明日、頑張ってください。
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