朝一番、鈴に話し掛ける。昨日のこと聞かなくちゃって。
まさか弦一郎だとは思わなかったからなー。灯台もと暗し。
「あ、おはよ。…はぁー。」
…あれ?
やたらテンションの低い鈴。ちょっと意外で。ため息なんかついちゃって。
「ど、どーしたの?」
「ううん。何でも。…はぁー。」
何でもなくないでしょ。
さては、弦一郎…?
「あ、それよりさ、」
「ん?」
「茜の憧れの君、仁王君でしょっ?」
「え!?い、いや…!」
「もーバレバレだって!てか最初っから仁王君かな〜とは思ってたのよね〜。」
バレバレなのか…?
やばいな、本人にも伝わってそう……、
「で、でも別に、ちょっと憧れてるってゆうか気になる程度で…、」
「ふーん。でもま、仁王君は人気あるから、好きなら本気で頑張らないと!だよ?」
落ち込んじゃいないけど。もともと仁王が人気あるのはじゅーぶんすぎるほど知ってて。
まさかあたしもそっち側の人間になるなんて思いもしなかったわ。恐るべしイリュージョン。
「ところでさ、」
「?」
「仁王って、…か、彼女とかいたりするのかな。」
鈴はあたしの言葉に、腕を組んで考えだした。ぶつぶつ呟きながら。
○○さんは前々回、△△さんはもっと前だし〜って、
いったいどんだけ付き合ってんだよ。予想通りだけどさ。
「今はいないんじゃないかな。」
「ほ、ほんとっ?」
「うん。確か3月に一個上の先輩と別れて、それっきり噂聞いてないし。」
先輩と付き合ってたんだ…!さすが仁王。あのフェロモンなら頷ける。
あたしは別に聞いてもいないのに、鈴はその仁王と先輩の噂をぺらぺら話し始めた。柳並みにこの子もいろいろと詳しいのよね。
どうやら、付き合ってた期間はたったの2、3ヵ月。でも仁王にとっては最高記録だったらしい。
名前を聞いてもあたしは全然知らない人で、特に有名ではないけどきれいな人だったって。
でも一つ、聞き逃せない話があった。
「仁王君、ベタ惚れだったらしいよ。」
「ベタ惚れ?仁王が?」
「そーそー。彼女も彼女で毎日練習見に来てたよ。“雅ー”って、遠くからでも叫んでたね。」
鈴は、その彼女の、似てるんだか似てないんだかの物真似らしきものをした。
雅って呼ばれてたんだ。
なんか仁王には似合わない言葉だった。その呼び名も、ベタ惚れっていうのも。
あたしは仁王という人をよく知らないけど、でも何となく、何かに没頭する姿が想像できない。
付き合ってた期間は本当に仲が良くて、彼女が高校へ行っても続く確率は90%を越えていたらしい。
…鈴の情報収集源が今わかりました。
でも突然、彼女は別の高校へ行くことになった。時期的にも仁王と付き合ってるときに受験してたことになる。
そのことを仁王は承知だったとか、別れは泥沼だったとか、いろんな噂はあるけれど、結局のところ真相は本人たちしか知らない、というのがこの話の結末。
ただそれ以来、仁王は彼女を作っていない。それは事実らしい。
「ま、いろんな話はあっても今はフリーなんだからさ、お互い頑張ろうよ!」
やや強引な励ましも受けて、恋に燃える友達のキラキラした目を見てると、
すごくうらやましくなってきた。同時に、あたしの恋は早くも実らないんじゃないかって思えてきた。
先輩かぁ…。どんな人だったんだろ。
「そういえば、鈴。」
「ん?」
「まさかの弦一郎にびっくりだったんですけど。」
弦一郎の名前を出した途端、うっれしそーにニコーっと笑う鈴は本当に恋する乙女で。
いいなーって、本当に思った。
あたしも素直にそんな気持ちになれる日がくるんだろうか。
少し湧き出てきたはずの何かを、あたし自身まだ確信できるほどの余裕はなかった。
「でもねー、真田君は手強いわぁ。」
「…だろうね。」
「昨日もね、弦一郎って呼んでいい?って聞いたら、」
「聞いたら?」
「出会って間もない男女が名前で呼び合うなど不届きだ!って叱られた〜。」
アホかあいつは。
てか鈴勇気あるな。
そんなとこも好きって顔してる。恋は盲目だね。
「いーなぁ、茜は。真田君と名前呼びで。」
そーかな。まぁ弦一郎はあたしと柳ぐらいしか弦一郎呼びしてないからな。
同じく仁王も名前呼びを聞かない。それこそ特別な人だけ、名前で呼ぶんだろうな……、
例の先輩みたいに。
名前の特別、か。
「茜。」
昼休み。弦一郎があたしのクラスへやってきた。今日はおばさんがあたしの分のお弁当も作ってくれて、それを届けにきた。
茜。弦一郎は昔からあたしをこう呼ぶ。
あたしも弦一郎って、昔から呼んでる。
小さい頃からそうだから、周りにどんなふうに呼ばれるかなんて考えもしなくて、
実際大きくなってみれば、弦一郎は真田ってみんなから呼ばれてる。
名前呼びは人によってかなり特別だよね。鈴が弦一郎って呼びたがるのもわかる。
あたしもあたしで、仁王が誰かに特別な呼び方をされてたんだって思ったら、
何だかうらやましさみたいな気持ちに加えて、
胸がぎゅってなった。
変なの。よくわかんないこの気持ち。
「弦一郎。」
「なんだ。」
「あたしは今日から弦一郎のこと、真田って呼ぶ。」
「…?どういうことだ?」
「まぁまぁ。だから弦一郎もあたしのこと、上野って呼んでよね。」
「お、おい…、」
お弁当のことのお礼も付け足し、そのまま席に戻った。
あたしと弦一郎は特別でも何でもないんだから、周りのみんなのように呼ぶべきだ。
弦一郎が柄でもなくとんでもなく驚いたような顔を見せたので、自分の中でそう言い聞かせた。
少し罪悪感があったのかもしれない。
急に、弦一郎だってあたしとは違う、男子なんだからと考え始めた瞬間でもあった。
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