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「あ、ブン太。おかえり」
私の前に跪いていた幸村くんが立ち上がり声を上げた。そう、そこにいたのはジャージ姿の丸井くん。両手にペットボトルのジュースを持っていた。
もちろん私も丸井くんも、お互い瞬時にその姿は捕らえていたんだけど。お互い第一声はなかなか出なかった。
「俺はお邪魔だからお先に帰ろうかな。それ一つもらうね。代金は明日でいいかい?」
「…え、ああ」
「じゃ、鍵はかけておいてね。ついでに鍵の持ち主は明日朝一でここに来るように」
そうして笑いながら丸井くんからペットボトルを受け取り、幸村くんは部室を出て行った。気まずかったのか、明らかに気を使われた格好だ。
私は丸井くんを探し求めてここに来たんだから。丸井くんも、仁王くんの話の真偽は置いといて、さっきの後輩の話によると私に会いに来ようとしてたんだから。
…よし、今日のことをまずは謝ろうと、勢い良く椅子から立ち上がった。その瞬間、丸井くんから口を開いた。
「…何してたの?」
「え?」
「幸村君と。手当てしてもらってたのか?」
「…う、うん、そう!傷口が、広がっちゃってて…」
「ふーん…」
気まずいを通り越して、丸井くんは絵に描いたように不機嫌そうだった。これは、今、今日のことを謝っていいんだろうかと不安が過る。…でもそんなことを言ってたら本当に嫌われてしまうかもしれない。
戸惑っていると、丸井くんは上のジャージを脱ごうとした。
…そうか、ここは男子部の部室なわけで、丸井くんはこれから制服に着替えようとしているんだ。
「…わ、私ちょっと外に出てるね」
これは遠慮とか距離とかそういうものじゃない、はず。一般的なマナーだと、そう確信しながら外へ出ようとした。…けど。
後ろから丸井くんに腕を掴まれた。
「出なくていいって」
「え、でも…」
「いいんだよ。…だから、そういうのが」
丸井くんはそこで言葉を止めたけど、きっとそのあとに続く言葉はこれだ。
“そういうのが嫌”。
あのハロウィンのとき、成海のそういうところが好きと、今の状況とまったく真逆の言葉を言ってくれた。それがまるで遠い昔の夢のように感じた。
もしかしてもう丸井くんは私のこと、嫌いになってしまってるかもしれない。
…そっか、そうかもしれない。それならもう、いいや。
「…私だって嫌だよ」
「え?」
「そういう自分が」
大きく息を吸い込んで言った。もうダメになるかもしれないなら、全部思い切ってぶちまけちゃおうと。この呼吸とともに。
「初めて付き合って、憧れの丸井くんと、緊張もするしいろいろ遠慮しちゃうのも仕方ないでしょ」
「……」
「私だってそれは、もっと気を楽にして付き合いたいとか、思うけど、でも嫌われたらどうしようって、考えちゃうんだよ」
「……」
「でも私なりに頑張って、前よりも近づきたいって思ってるから…、進歩してないかもしれないけど、でも…」
「俺だってそうだよ」
捲し立てる私を黙って見ているだけだった丸井くんは、さっきの私と同じように大きく深呼吸して、言葉を続けた。
「俺だってずっと好きだったお前と付き合って、いつでも緊張しまくりだし、どうしていいかわかんないときもあんだよ」
「……」
「でももっと近づきたいから、なんかきっかけはねーかって、いっつも必死で探してる」
「……」
「今さっきだって幸村君に手当てしてもらったとかすげー腹立つし。でもそういうのは俺だけじゃん」
「そんなことないよ」
「え?」
「私だって丸井くんがB組の女子と仲良さそうな気がして日々嫉妬してるもん」
「でもこないだファミレスで黙って女子と遊んでても何も言わなかっただろい」
「言ったら嫌われると思ったからだよ。嫌だなぁ嫌だなぁってすっごく思ってたよ」
「じゃあ言えよ」
「言ったよ今」
お互いがきっと言いたいことを、一部かもしれないけど一気に言い合った。そして言い合った今、しかめっ面の二人は呼吸が少し弾んでいる。
これはケンカだ。紛れもなくケンカ。優しい丸井くんと、あんまり言いたいことを言えない私がケンカするなんて。今の今まで想像もしなかった。
「…なんか」
少し間を置いて、丸井くんが再び口を開いた。頭を掻きながらふーっとため息。困ったような顔だ。
「俺、今日のこと、勝手に拗ねてごめんってお前に謝るつもりだったんだけどな」
「私も…、今までの態度ごめんって」
本当に何してるんだろうって、私だけじゃなくて丸井くんも思ってるかも。
しようと、したいと、思ってることがうまくできない。難しいんだな、付き合うって。
でも、そんな落ち込みの反面、少し気分が軽くなった気がした。すっきりした、というのが正しいかもしれない。
ちらっと丸井くんの顔を見ると、丸井くんもさっきよりずっと表情が和らいでいた。目が合って、一瞬間があったけど。
ケンカしていたくせに、お互い同時に笑い出した。
「なんかちょっとすっきりしたな」
「うん。確かにすっきりした」
「ケンカって、なるべくしたくないもんだけど」
「……」
「今のはちょっと、前進した気がする」
そう言ってふんわりと笑った丸井くん。その言葉に肯定の意味で二度頷き、私も笑った。
「じゃ、ちゃっちゃと着替えちまうな」
そのまま一緒に帰ろうと、そういうこと。実は一緒に帰るのは初めて。それももちろん緊張はする。
でももう、変に遠慮はしない。嫌われたくないって気持ちがなくなりはしないだろうけど。でも、もっともっと近づけるように。
手を伸ばすなら今だと、そう直感した。
丸井くんが上を脱ごうとしたところで、その腕に触れた。
「ん?」
「…あ、あのね」
でもやっぱり緊張する。いいのかなって、女子の私からそんなこと言うのってどうなのって、迷いもあるけど。
「私、今日頑張ったから、……ご、ご、ご褒美が欲しい!」
もちろん個人賞は取れなかった。クラスも優勝はA組でうちは5位。
でも頑張ったと、頑張ったなと、丸井くんに褒めて欲しい。
それと、今日こんなことがあったから。お互いもっと近づきたいと思ってるってわかったから。
美岬の言う“ベタつき感”。それを手に入れたい。
「ご褒美って……え?」
「あ、あの観覧車の、続きを…」
丸井くんは、一瞬ぽかんとした顔を見せたけど。すぐに思いついたのか、はにかんで笑った。
明るい笑顔も素敵だけど、こういう表情も素敵で、ドキドキする。自分の口から出た言葉以上にドキドキする。
「ちょっと待ってな」
そう言うと丸井くんは、部室のドアを開けて外を確認した。よし、誰もいないなと呟いた声が聞こえてきた。
「そんじゃ、…するか」
「…う、うん!」
丸井くんが私の肩に手を置き、二人揃って深呼吸。
どうしよう、すごく緊張してきた…!自分で言い出したのに!心臓が痛いぐらいにドキンドキン言ってる。丸井くんも緊張しているのか、ちょっと顔が強張っている。
…あ、そうだ忘れてたと、慌てて目を閉じた。じっと見てたらきっと丸井くんもやりづらいだろうし。あと、自分の手も丸井くんの腰辺りに添えさせてもらった。
すると、丸井くんの手が私の首周りに回された。
見えないから、進行状況というか、タイミングがわからない。ドキドキしながら待っていると。
私のほっぺたに柔らかい感触が。
「…いい匂いがする」
今日私けっこう汗かいちゃったんだけど…!思わずうっすらと目を開けてしまって、さっきの感触は丸井くんの唇だと気づいた。そして、見つめる先のその唇はそのまま私の唇に、ゆっくりと触れた。
「大好き」
「…うん、私も」
ぎゅっとされて、くっつき合うほっぺたの横、耳元で穏やかな呼吸とともに丸井くんの優しい声が聞こえてきた。
たったの今さっきのことでも、この気持ちは言葉でうまく表せない。柔らかいとかドキドキするとか、そんなありきたりなフレーズしか思い浮かばないし、ぎゅっと抱き締められて胸もいっぱい。
「…丸井くん」
「ん?」
「ご褒美、ありがとう」
お互いのほっぺたをくっつけたままそう伝えると、ハハッと丸井くんは大きく笑った。そしてよしよしと頭を撫でられた。
「真帆は今日俺の代わりに頑張ったもんな」
「うん、頑張ったよ。転んでケガもしちゃったけど」
「よしよし、お疲れ。…だから、まだまだたっぷりサービスするぜ」
まっ俺がしたいだけなんだけど、と言って、丸井くんは私の顔を覗き込みニカッと笑った。
そして宣言通り、再び丸井くんの唇は私にゆっくりと触れる。しばらくして離れたらぎゅっとし合う。また唇を重ねる。それが何度も繰り返された。
帰り道は周りに誰もいなくて、二人で手を繋いで帰った。
手を繋ぐのもまだまだ照れるし覚束ない。でも少しずつでも確実に、私と丸井くんは近づいている。
もっともっと、それこそいつかは一つになりたいなぁと思った。