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寒々しい夜風を顔に受けながら、自転車で帰り道を急いだ。シンと冷えて重く冷たくなった空気に、もしかして雪が降るんじゃと少し心は踊る。
でも、手袋もせずさらされる手が痛いのと、心に突き刺さる何かが俺をこの空のようにどんより沈ませた。
家の駐輪場に自転車を停めて階段を上っていくと、少しずつ自分ちの前にある、何やら塊が目に入ってきた。
…塊っちゅうのは失礼か。しゃがみ込んでいるヒト。
「おかえりー」
「なんでお前さんがここにおるんじゃ」
驚きもせず悪態をついた俺に、瀬戸はヘラヘラと笑う。
そして立ち上がり、手に提げていた袋を高く上げた。
「今日は何の日でしょう?」
「今日?」
「あ、日付け変わったから昨日か」
「…あー」
ちらっと腕時計を見て、その掲げられた袋の正体と、こいつがなぜうちの目の前にて張っていたかがわかった。
今日は2月15日午前0時12分。つまり、バレンタインがついさっき終わったばっかというわけじゃ。
「入る?」
「そのつもりですけども」
「ちょっとぐらい警戒しんしゃい」
俺の言葉をあははと笑い飛ばしながら、家の中に入っていった。
とはいえ、一人暮らしで、さっきまでバイトで家も空けとったから、入ったところでそんなにあったかくはない。
「暖房つけていいー?」
「どうぞ」
食欲はなかったものの、とりあえずコンビニで夜ご飯と明日のご飯を買ってきとったから、小さい一人用のテーブルにドンと並べた。
「食うか?」
「えーこんな時間だしなぁ」
「そうじゃな、やめとけ」
「じゃあこっちのお蕎麦で!」
結局食うんかいとツッコミを入れると、だってこれ見た瞬間お腹が鳴って〜と、カップ蕎麦を手に笑った。…俺がそっち食いたかったんじゃけど。まぁうどんでいいか。
蕎麦とうどん、入れるためのお湯を沸かしていると。さっそくテレビをつけたのか、深夜のバラエティを観てあははと笑う声が聞こえてきた。つけてすぐテレビの世界に入り込めるってすごいのう。
テーブルの上には、さっき見せられた袋が雑に放置されていた。
「ほらよ」
「ありがとー。何分だっけ?」
「5分」
「お!ちょっといいカップ麺?…って、3分て書いてあるんだけどここに」
騙されるとこだったじゃん!と、怒ったフリ。怒った顔をしてもすぐ笑うからな、こいつは。
「ねぇ仁王」
「ん?」
「学校、来ないの?」
たったの3分、待つだけ。それだけでもこいつは黙って待つということを知らない。バラエティでケタケタ笑っていたかと思えば、ちょっと神妙そうな顔をして、そう聞いてきた。
「今やっとるとこつまらん。出席もとらんし」
「じゃなくて、授業はあたしも出たり出なかったりだけどさ。そうじゃなくて」
ちらっと、部屋の隅に置いてある、テニスのラケットバッグに視線を送った。
高校まではテニス部一筋で、何をするにしてもまずは部活が頭の中にあった。でも大学からは理系の身としてはガチガチの体育会より、ほどほどにやるサークルを選択した。一応サークルとしては一番知名度も実績もあるとこを選んだつもり。そしてこいつも同じサークル。
「もうすぐ大会始まるよ」
「んー」
「仁王いないと女子がやる気出ないって」
「へー」
そろそろ3分経ったかなと、瀬戸の話を流しながら蓋をビリビリ開けて食べることにした。ちょっとまだ硬かった。
「彼女も毎日来てるよ」
その言葉に、啜ろうと麺を摘んだ箸が一瞬止まる。
「…やっぱ別れたんだ?」
ほんとに一瞬だったが。それを見逃さない瀬戸は、俺からすれば参謀よりも参謀らしい洞察力があると思う。俺のことを誰よりわかってる。
「なんかちょっと前から違う男子とばっか一緒にいるからさ。前はいつも仁王にべったりだったのに」
「……」
「なんで別れたの?あっちから?」
無視してうどんを食おうとすると、ガシッとその手を掴まれ止められた。もう3分とっくに経っとる。早くこいつも食べんと伸びるだろうに。
仕方ないと。ちゅうかおそらくこいつもそれを聞くために来たんだとはっきりわかってるから。その経緯を説明した。
「へー浮気されたんだ。仁王が」
「……」
「浮気するなら仁王だと思ってたのに。仁王がされたんだ、浮気」
連呼するなと怒ると、ゴメンゴメンと全然心のこもってない謝罪を頂いた。
そもそもこいつの反応通り、俺もびっくりだった。どちらかというと愛されてるほうだと思ってたし、側から見てもべったりだったのは向こうのほう。俺がすることはあっても、あちらさんはないだろうというのが周りみんなの見解だった。
しかし残念ながらされたのは俺で、おまけに自分ちに連れ込んでた現場も見たっちゅう最悪の結末。
「まぁしょうがないんじゃない」
「…は?」
「だってかわいいじゃん、あの子」
いや、かわいいからで済まされたらどうしようもないじゃろ。普通はこういうとき、ヒドイねあの子!仁王かわいそう!…とかなるじゃろ。
…かわいそう。実際そう言われたいかと言えば、違う気もするが。
「ちょっとは慰めんしゃい」
「別にいいでしょ。仁王だし」
「……」
ああなんか腹立ってきた。ずっとあいつに腹が立ってたが、今はこっち、瀬戸に腹が立つ。
「…まぁでも、慰めるために今日は来たわけだけど」
そう呟きながら、やっとこさ蕎麦の蓋をビリビリ開けて、ようやく箸を手に取り食べようとした。
その手を今度は俺が止めた。
「…なに」
「だから慰めんしゃいって」
「……カワイソー仁王ちょーカワイソー」
もっと腹が立った。棒読みも甚だしい。そんな言葉を欲しいわけじゃない。
「やらせて」
グイッと手を引っ張り、俺のほうに寄せた。足がテーブルにぶつかって揺れたカップ蕎麦が少し、こぼれたようだった。
瀬戸とは中学からの付き合いで、まぁかわいいだとかけっこう好きだと思う感情はあるが、そういう関係になったことはない。それよりも友人関係で強く結びついてる。
だから、もしそうなっちまったらそのあと、俺らはどうなるんかと。それが少し怖い。走馬灯のように中学からの今までの思い出が頭を巡った。
瀬戸はどうなのか、その顔を確認すると……真顔。
「え、やだよ。仁王となんて」
もうちょっとこう…、別にときめいてほしいとかその気になってほしいとか贅沢は言わんけど、困ったり躊躇ったりした表情をな、期待してたんじゃけど。
「お前さん、ここは嘘でも“一回だけね”とか言えんのか」
「言えんわ。仁王相手に」
腹が立った…を通り越し、あーやっぱりこいつとは友人以上にはなれんよなと思った。俺よりもずっとこいつのほうがそう思ってたんだと知って、変に虚しくもあった。ていうかちょっと悲しい。
「そんなに嫌われとったとは知らんかったぜよ」
「嫌い?なわけないじゃん」
「違うんか?」
「違うよ。あたし仁王が大事だもん。そんな体だけとか嫌だもん」
「……」
「慰めるために一回だけとか、冗談でもイヤ」
真顔、というより真剣な顔でそう言い切った。掴んでいた手は、力無く離した。
こいつの言葉に完全に同意だったから。
それと、自分でもびっくり。うれしかったんだろう。堪らず顔が緩んでいく。
その俺の顔を見て、瀬戸もやっと笑った。
「なぁ、一回だけ」
「やだってば」
「じゃあぎゅっとするだけ」
「うーん…それぐらいならいいか?」
甘いやつじゃ。俺が相手じゃなきゃ、そのままなし崩しじゃき。
許可を頂いたので、元の位置より移動して瀬戸の真横に座り直した。そして自分の望むまま、ぎゅっと抱きしめ、おでこにほっぺたをくっつけた。俺のほっぺたもこいつのおでこもどっちもじんわりあったかい。
「さっきちょっとキュンとしたぜよ」
「さっき?」
「大事だって、言ってくれたとき」
仁王が?キモーい、なんておかしそうに腕の中で笑う。自分でもそう思ったが、でもほんとにそうだったから。
あったかい。ほんとは元カノのぬくもりがよかったのか、むしろ誰でもよかったのか、自分でもわからんけど。
スーっと、どんよりした気分が晴れてきた。
「そうだった、バレンタイン!」
思い出した。そういやもともとそのチョコを渡しに来たんだったなこいつは。
俺に抱かれたまま、テーブルの上に雑に置かれたそれを手を伸ばし取って渡してきた。
「手作りチョコだよ」
「ほーう。ありがたく頂くぜよ」
「久しぶりだな、仁王にあげるの」
そういえばそうだった。昔から毎年のようにもらっとったけど。
俺が元カノと付き合い始めてからはもらってなかった。こいつなりに気を遣っとったんか。
「ねぇ仁王」
「ん?」
「あたしもさっきうれしかったよ」
「なにが?」
「仁王があたしの言葉に喜んでくれて」
惚れてもいいよ?なんて笑うその顔に、再びキュンとした。でも今度は口に出して言えるほど軽いもんじゃないって。言えるほど冗談じみたもんでもないって思った。
ただ、そんな単純な俺でも、瀬戸が俺に手を回さない限り、何とか堪えようと自制することはできる…はず。
「瀬戸」
「んー?」
「一回だけ」
「やだってば。そんなこと言ってると帰るよ」
「ウソウソ。帰らんで」
そんなやり取りに、二人で思う存分笑って。しばらくしたあと、このもらったチョコを二人で分けて食べた。
「仁王。あたし待ってるからね」
「…お返し?」
「その解釈はご自由に!」
普通に考えればお返しじゃき。深読みすると、大学およびサークルへの参加。さらにさらに深読みっちゅうか、ちょっと期待も込めると…、俺の傷が癒えるまで?
とりあえずこのチョコのお返しは1ヶ月後。楽しみだなーと言う瀬戸だが、俺こそ楽しみだと思った。
こいつに返すのも久しぶりだし、それ以外に何か、俺のこれからにいいことが待っとるんじゃないかって。
結局、蕎麦もうどんも伸びきっちまったが、チョコを食べることができただけで、俺の腹も心も満たされた気分だった。
きゅんって音があるらしい