03.ミラージュ
夏休み突入後、テニス部男女2・3年合同の合宿が始まった。もちろんメニューは別々だけど、宿や夜ご飯は一緒だったり、夜はみんなでわちゃわちゃと遊んだりする。
…そういえば去年、肝試しをやって、赤也とペアだったなぁって思い返した。
ちなみに今はランニング中。なんか知らないけどグラウンドいっぱいぐるぐる回ってる。
「あー死にそうクソ暑い」
「はい綿谷、今文句言ったから3周追加ね」
「!?文句じゃないです!誤解です部長!」
テニス部は男子がもちろんズバ抜けて厳しいけど、女子もなかなかに厳しい。特にあたしはレギュラーで、ビシバシ鍛えられているわけだ。
文句も言わず真面目に走った面々は先に走り終わり休憩に入った模様。その中には梨花子もいた。いいなぁなんてうらやましがりつつ、あたしやもっと走り込みたいという物好きな部長、数人のレギュラーたちがラスト1周ダッシュ!というかけ声のもと、最期の力を振り絞った。
ようやく終わり、ヘトヘトで倒れ込みそうになったけど。ふと、梨花子がいる女子の集団を見ると。
どうやら男子も休憩中なようで。梨花子のところへ赤也が近寄って行くのが目に入った。
「ほら綿谷、一緒にクールダウンするよ」
「了解でーす」
部長につれられ、軽くジョギングをする。部長は厳しいけど、練習中以外は優しいし、何よりこの厳しさはあたしに期待をしてるからって、そう言ってくれた。そしてあたし自身も2年ながらにレギュラーであることに誇りはある。…でも。
やっぱりあっちの集団に目が行ってしまう。いつの間にやら赤也は梨花子と普通に話せるようになったようだ。
男子もだけど女子も、レギュラーとその他は練習内容にちょっと違いがある。だからあたしは梨花子や他の2年とも仲は良いけど、練習中は先輩たちと行動を共にする。
誇りもあるしレギュラーの座を譲る気もないけど。たまに、あっちがうらやましいと思ってしまう。
そんなの贅沢過ぎる感情ってだけじゃなく、レギュラーではない人たちにすごく失礼だってわかってる。
でもそう思ってしまうのは、あそこにいる梨花子が、赤也に想いを寄せられてるからというのが遠因なのかもしれない。
「じゃあ休憩!ちゃんと水分摂って」
そんな部長の声も耳に入ったけど。あたしはなかなか足が動かなかった。みんな向かった、ドリンクのある場所まで行きづらい気がした。
ただぼんやりと、梨花子と赤也が話しているのを見ていた。
「お前、あんだけ走ってよく死ななかったな」
いきなりそんな声が背後から聞こえてきて、あたしの視界が何かに遮られた。柔らかいものが、目の周りにぐるっと巻かれたせいだった。
「…え?なにこれ!?」
「汗だくじゃん、タオル貸してやるぜ」
この声は丸井先輩…?目の周りに巻かれた、おそらくタオルは、あたしの後頭部でハチマキのごとく結ばれた。目がやんわりと圧迫される。
「丸井先輩!?なんですか!」
「タオル。貸してやるって」
「それはありがたいですけど、目隠しじゃないんだから!前見えないし!」
「いんだよ見えなくて」
少し低めの声で丸井先輩はそう言って、またぎゅっとタオルの後ろを締め直した。さらに圧迫されて目玉が引っ込みそう。
あたしがたった今、何を見つめていたのか気づいたから?あの二人を見て落ち込んでいたから?
「ほら、ドリンク飲めよ」
何やら手元にペットボトルのようなものを渡された。蓋は開いてて、言われた通りゴクゴクと飲んだ。
「丸井先輩」
「ん?」
「これ中身なんですか?」
「普通のスポドリ。別に変なの混ぜてないぜ」
「へー…。でもなんか、しょっぱいです」
「塩分入ってるからだろ」
「へー知らなかった。いつも飲んでるのに」
「常識だぞ」
知らなかった。今まで甘いとさえ思ってた。ただこうやって目の見えない状態で飲むと、味が舌にすごく染みる気がする。ていうか、このペットボトルって丸井先輩のかな。間接キス?やだラッキー、なーんて…。
柳先輩にせっかくおごってもらったあの日のジュース。赤也から返されたあと、結局あたしは飲めなかった。
飲んでいたら、あのときならどんな味がしただろう。
「丸井先輩」
「ん?」
「やっぱしょっぱいです」
今のこの目隠し状態の自分の姿がしょっぱいっていうかマヌケってのもあるし。
ああそうか、しょっぱいのはこの飲み物のせいじゃないんだ。汗か、汗だろうな、口元に入り込んでる。
「あっちに日影あるから行こうぜ」
目隠しをしたまま、丸井先輩に背中を押されつつその日影とやらに向かった。
着いた瞬間、もともと暗かった視界がより一層暗くなり、涼しさも感じた。
そこでようやくその目隠しタオルが外され、目元もスーッとした。
日影っていうから建物の影かと思ったけど、周りは軽く林みたいだった。そういえば少し遠くに見えてたな。そしてここからあの二人はまったく見えない。
よっこらせと丸井先輩が座ったのを見て、あたしも隣に体育座りした。
「お前さ、風邪引いてる?体調悪いんじゃね?」
「え?」
「普通に走ってたけど。その前の素振りとか、キレがなかったし」
そんなことはない、と思ったけど。でも言われてみればちょっと具合が悪い気がしなくもない。
でもそれは、あの二人を妬ましく思っていたせいかと思うけど。
「あたしのこと見ててくれたんですか?」
「まぁな。けっこう心配してんだから」
「おーありがたいです。さすが長男」
「ちっこい弟二人と、ここに手のかかる妹もいるからな。あ、お前も弟か。サルだし」
「サルはこの際置いといて、せめてメスがいいです」
優しいなぁ丸井先輩。きっといつもと違うあたしに対していつもと同じように接してくれて、気を使ってくれてるけど気を使ってない。丸井先輩の優しさに、ますますしょっぱくなっちゃうよ。
「無理して元気出せとは言わねーけどな」
「……」
「せっかくだからちょっとぐらいは合宿を楽しめよ。俺らと一緒の合宿は、一旦これが最後なんだから」
そういえばそうだ。もうすぐ夏の大会で、それが終わったら丸井先輩たちは引退だ。また高校でもテニス部であれば一緒の合宿はあるかもしれないけど、少なくとも2年後。全員が全員いるとは限らない。あたし自身がいるとも限らない。
「丸井先輩、また目隠しタオルの出番かもです」
「もうタオルはいいだろ。ここなら周りに見られることもねーし」
「じゃあこの乙女に、胸でも貸してください」
そんなのは無理難題、というかただの冗談で、調子乗んなサルとでも返されるかと思ったけど。
でも丸井先輩はほとんどノータイムで、あたしの頭に手を回してきた。そして力がこめられたその手のせいで、首だけグキッと横に折れた。ちょっと痛い。
「え?なんですか?」
「胸貸せって言っただろい」
「え!?いやいやいいですよ、冗談だから…!」
「なんだよ、せっかく貸してやろうと思ったのに」
「冗談ですよ!…いやーでも先輩、男前」
「今さらじゃん」
もちろん冗談だったけど。手を引っ込めて、腹減ったなーとすぐ何気ない会話を繋げた丸井先輩の優しさと、言った通りの男前っぷりに、ほんとにタオルを貸して欲しくなる。
丸井先輩たちがいなくなるのはこの上なく寂しい。
けど、さっきの妬みのような感情と違って、沈んでいく気持ちもどこかきれいに感じる。沈んでもまた昇る太陽のように、終わりであって終わりじゃない。悲しいよりも切ない、そんな感じだ。
そのあとは、暑いなー暑いですねー昼飯何かなーカレーが食べたいですーと、のん気な会話を続けた。
…そのとき。
「俺は牛丼つゆだくがいいぜよ」
ガサッと後ろから音がして、二人揃って勢いよく振り返ると。
そこにいたのは仁王先輩だった。もともと色白だしなんだかぬぼーっと突っ立ってるし。
「仁王先輩、幽霊みたいです」
「失礼じゃな。こんなにイケてる幽霊がいるか」
「それは突っ込まねーけどよ。いつの間にいたんだよ」
「お前さんたちが来る前から。ここは俺のテリトリーなんじゃ」
「ああ、サボって昼寝するためのな」
「充電って言って欲しいのう」
のそのそと近づいて来た仁王先輩は、あたしと丸井先輩の間に無理矢理入り込んで座った。…狭いんですが。
「なんでわざわざくっつくんだよ。暑いだろ」
「そうですよ暑苦しい」
「俺も混ぜて。どうせこれから二人で愚痴大会じゃろ?イニシャルG.Sの愚痴じゃろ?」
「ちげーしあいつ地獄耳だから愚痴ったらすっ飛んでくるぜ」
「え!?…あたしは違いますって今のうちに言っておこう。違います真田先輩」
「実名出すな。マジで来るから」
「ちゅうことはあれか、女子部の愚痴?女子の悪口はなかなか聞き応えありそうじゃ」
「確かにちょっとおもしろそうだな」
「あたしそんな愚痴なんてないんで。現状に満足してるんで」
「嘘つけ。絶対なんかあんだろい」
「よし綿谷、女子のドロついた恨み辛みを吐きんしゃい」
「毅然と拒否します。ていうか暑い仁王先輩」
丸井先輩と二人でも楽しかったけど。そこに仁王先輩も加わり、弱者である後輩のあたしがここぞとばかりにイジられるけど。
もっともっと楽しくなった。
それだけにやっぱり、この夏が一度終わってしまうことに、胸が締め付けられそうだ。
「先輩ー」
「「ん?」」
「高校でもテニス続けますか?」
聞くまでもないこと。この人たちからテニスを取ったら、ただの食いしん坊とただの変人。…それは言い過ぎか。とにかく、こんなにテニスが好きな人たちが続けないわけない。
ただ聞いてイエスと言われて安心したいだけ。
「当然だろい。いきなりなんだよ」
「俺らが引退するのが寂しいんか?」
「ちょっとだけ寂しい気がしなくもないです」
「安心しろよ、高校行ってもちゃんと顔出すぜ。コーチだってやってやるし」
「じゃあ俺は綿谷とたまにはデートでもしてやるぜよ」
「それはいいです」
この先輩たちが大好きだと心から思う。丸井先輩たちもだし、練習で一緒の女子の先輩たちもまもなくいなくなってしまうことは、やっぱり心細いけど。
でもそのことでネガティブになる必要はないって、この二人を見てそう思った。
赤也と梨花子のこともあってか、俯きかけたけど。先輩たちとは終わりであって終わりじゃないから。きっとまた、諸先輩方のぶっ飛んだテニスを見ることはできるだろう。
「ていうか、あれもう練習始まってません?みんなラケット持ってコートにいるような」
「んー…あれを練習だと捉えるならそうなんだろうよ」
「俺は違うと思う。あれは蜃気楼じゃき」
「へー蜃気楼ですかー」
あたしの言葉が終わったと同時に。3人一斉に立ち上がり、きっと各自最大限のスタートダッシュで駆け出した。
もちろん遅れた我々は、また走らされることになった。今度こそ死ぬ、というかやっぱり具合が悪い気もした。