バレンタイン
「…なんか変な匂い」
目の前の鍋から漂う焦げた匂いに、あたしは顔をしかめる。
「って焦げてる!…熱っ!…ぎゃあ!」
慌ててボールを鍋からひっこぬくものの、予想外に熱いボールにびっくりして、ひっくり返してしまった。
「なに!?今の声!?」
バタバタと台所に駆け込んできたお母さんは、床に座り込んだあたしの半べそかいた顔を見て、深くため息をついた。
「…あんた、それ何回目?」
三回目。ぽつりと呟いたあたしは、その勢いで涙も零しそうだった。
そうです。今、チョコを作ってます。
日本中の恋する女の子が一年のうち最も張り切っちゃう日。バレンタイン。
そのバレンタイン前日の話。明日渡すチョコを作ってるところだった。
「ほんと不器用ねぇ」
「うぅ」
「お母さんが手伝ってあげようか?」
「だめ!それはだめ!」
ちゃんと自分で作って渡すんだ。
だってこないだ言ってたんだもん。
『もうすぐバレンタインですね』
『あー、そうじゃな』
『うれしくないんですか?お兄さんいっぱいもらえるんじゃないんですか?』
『もらいすぎて困る。食いきれん』
『あはは…。なるほど』
『でも、手作りならうれしいかもな』
『手作り…ですか?』
『ああ。愛情こもってそうやし』
『…な、なるほど。手作り…手作り…。不味くてもいいんですか?』
『ははっ、その代わり愛いっぱい詰めてくれるじゃろ?』
『え!?』
『期待しとるよ』
って言ってたんだもん!
だからあたしは自分で作るんだ。一人で作って、渡して……、
できれば気持ちも伝えたい。
「ちょっと買い出しいってくる」
失敗を見越して多めに買っていた材料も、気付けばなくなってた。こんなに失敗するとは。あたしほんと不器用だわ。反省。
でもさ意外とチョコって難しくない?最初作ったやつは油みたいなのが浮いちゃって失敗(お母さんいわく“ブンリ”という現象らしい)。次は分量ばかりに気を取られてチョコがぶつぶつ残っちゃって失敗。三回目はしっかり溶かそうと思って強く熱してたら焦げちゃって失敗。
次こそうまくいきますように…!
そう願いながら、デパートの“手作りチョココーナー”に駆け込んだ。
「てゆうか、この手作りキット買って作っても、一応“手作り”だよね」
一流パティシエが微笑んでる箱を取り、あたしは考えた。これならチョコも中に入ってるし、手順書通り溶かして型に入れるだけでオーケーな代物。溶かすのさえうまくいけば。
これだ。これにしよう。いくら仁王くんのお兄ちゃんがカンが良さそうでもわかるまい。愛の分量なら問題ないし(うまいこと言ったよこれ)。
失敗も視野に入れて、あたしは箱を2つ持ってレジに並ぼうとした。
すると、見たことある制服の女子三人組が前にいた。
もしかして…、と、あたしは耳を傾ける。
「今年で三回目だねー渡すの」
三回目ってことは三年生かな。先輩かな。
「去年は結局どうだったの?」
「んー、多分丸井くんにいっちゃったっぽい」
「あー、有名だよね。仁王くん、甘いの苦手だから丸井くんに横流しするって」
仁王くん?今仁王くんって言った?
しかもまるいくん?まるいくんって、まさか仁王くんのお兄ちゃんがよく言ってる食いしん坊バンザイの?
「誰かに渡すぐらいなら受け取らなきゃいいのにね」
「でもあたしは受け取ってもらえるだけうれしいよ。お返しはちゃんとくれるし」
「へー律儀だね。てか今年こそ告白するんでしょ?」
告白。
そう、日本におけるバレンタインは、ただ女の子が男の子にチョコを渡すだけじゃない。もちろん義理もあるけど。
あくまで、好きな男の子に、好きという気持ちを伝える。それがバレンタインの意味だ。チョコはついでか、口実だったりする。
「オッケーもらえるんじゃない?女子の中で一番仲良しじゃん!」
「やめてよー、プレッシャーかけるのー」
その話の中心であろう女の先輩は、万更でもなさそうだった。自信があるのかな。しかも女子の中で一番仲良しって。
相手はきっと仁王くんのお兄ちゃん。見たことある制服は、仁王くんのお兄ちゃんと同じ立海の制服だから。中高一貫の立海は、制服も中高そっくり。
あたしが憧れてる制服。
“仁王くん、甘いの苦手だから丸井くんに横流しするって”
確かに仁王くんのお兄ちゃんは、いっぱいもらうから困るって言ってたけど。まるい先輩に渡しちゃうの?甘いの苦手って、こないだは言ってなかったけど…、
もしあたしからもらっても、困ってまるい先輩に渡しちゃうのかな。
「二番目にお待ちの方、こちらへどうぞー」
いつの間にかレジがあたしの番だった。ごちゃごちゃ考えながらも、手に持っていた箱をお姉さんに渡し、会計を済ませる。
そしてデパートを出て、再び考えこんだ。
あたしは作るべきなんだろうか。
こないだの仁王くんのお兄ちゃんとのやりとりでは、仁王くんのお兄ちゃんが少なからずあたしからのチョコを求めてると思った。自惚れかもしれないけど、そう思ってたんだ。
でもさっきの三人組の話。あれが本当なら、仁王くんのお兄ちゃんはあたしのでももらったら横流しするんじゃないか。そもそも、こないだだって、あたしからバレンタインの話を振った。だから仁王くんのお兄ちゃんはあたしに気を使ってあんなふうに答えたんじゃないか。
何回失敗したっていい。おこづかいがなくなったっていい。ただ仁王くんのお兄ちゃんの喜ぶ顔と、それ見てきっと幸せな気持ちになれる自分を思い描いてた。
だんだんとあたしは自信がなくなって。作るか作らないか、そこまで落ちていった。
「買い物ですか?お嬢さん」
田舎じゃないけど決して都会でもないこの街で、あたしん家と仁王くん家は、ご近所とは言わないけど十分近い範囲。
デパートからの帰り道、仁王くんのお兄ちゃんに出くわした。
「あ……、あはは…」
「?」
会いたいけど今はなるべく会いたくなかった。
あからさまに買い物袋を後ろに引っ込めたあたしに、仁王くんのお兄ちゃんは不思議そうな顔をした。
「今からコンビニ行くんじゃが、一緒に行かんか?」
それでもその顔はすぐに消えて、いつものように笑った。
一緒に行きたいのは山々。あたしもいつものようなら喜んでついてくだろう。
でも今は一緒にいたって、何話せばいいのか。明らかにしょんぼりした雰囲気を見せてしまうだろう。
俯き加減で黙っていると、仁王くんのお兄ちゃんはあたしの顔を覗き込んできた。
「おーい?」
意外にも近い顔に(なんてイケメン)、あたしは恥ずかしくなって後退りした。
「いやいや!なんでもないです!ってゆうかちょっと今忙しいので!」
「?」
「し、失礼します!」
「おい」
その場から一刻も早く逃げたくて、あたしは駆け出した。
けど、すぐに手を捕まれた。買い物袋を持っていた方。
予想外の方向に引っ張られたせいで、あたしは反射的にその手を振り払ってしまう。そして勢いで、買い物袋をぶちまけてしまった。
買い物袋から覗く手作りキットの箱。一流パティシエの笑顔が、なぜか今は悲しそうに見えた。
「すまん」
すぐに袋を拾い上げた仁王くんのお兄ちゃんは、中身がなんなのか気付いた模様。
ああ、作戦がばれてしまった。手作りがいいって言ってたのに。こんなせこい手を使うなんて、がっかりさせちゃったかも。
でもその前に渡すかどうか悩んでいたもの。もう関係ないかも。
「あー…悪かったな」
「いえ…」
「なんか…、ワガママ言って困らせちまったみたいじゃの」
ワガママ?
あたしが戸惑っていると、仁王くんのお兄ちゃんは、優しく笑ってその買い物袋をあたしに手渡した。
「手作りっちゅうのは別によくて…、お前さんからなら何でもいいから」
「え?」
あたしは箱を潰しそうなくらいぎゅっと抱き締めた。
あたしからなら何でもいいって。まるい先輩に渡すから?
仁王くんのお兄ちゃんは、本当は絶対うれしいこと言ってくれてるのに、あたしはなんでか素直に受け止めれなかった。
「あの…」
「ん?」
「お兄さん、甘いの苦手って、聞いたんですけど……、風の噂で」
さっきの三人組が言ってたことを、直球で聞いてみた。
もし、仁王くんのお兄ちゃんがあたしに気を使って無理して食べるなら、そんなのあたしだって全然うれしくない。
「まぁ、得意ではないな」
「あたしがあげても、まるい先輩にあげちゃうんじゃないですか?」
思い切ってそこまで言うと、仁王くんのお兄ちゃんは一瞬キョトンとして、そして今度は吹き出して笑った。
何もおかしくないし、ただの不安な乙女心だし。
「なんでお前さんのチョコをブン太にあげなきゃいけないんじゃ。絶対いやじゃき。一口もやらん」
「ほ、本当ですか?」
「当然。ま、他のはやるがの。お前さんはトクベツ」
そう言ってあたしの手を取り、半ば強引に歩き始めた。
ほら、コンビニ行くぜよって。
「ま、待ってください!」
「?」
「本当に、あたしからのチョコなら、食べてくれるんですか?」
図々しいかもと思ったけど。はっきり聞いておきたい。
あたしのチョコを、喜んでくれるかどうか。
「もちろん。愛情いっぱいチョコは一個しか食えんよ」
ちゅうかお前さんにだって一口もやらん、と仁王くんのお兄ちゃんは笑った。
そこまで聞くと、あたしはやんわりと仁王くんのお兄ちゃんの手を退かせた。さっきみたいな拒否じゃなく。あたしは今コンビニに行ってる暇はない。
「すみません、あたしやることあるんで!」
さっきとは打って変わって舞い上がった気分。精一杯笑って言った。
今度は仁王くんのお兄ちゃんも、残念じゃのーと、あきらめてくれた。
やることが何なのか、はっきりわかってるんだろう仁王くんのお兄ちゃんが、すごく大人に見えた。
一つしか年は変わらないけど、あたしはまだまだ仁王くんのお兄ちゃんに比べて子どもだ。
子どもだけど、頑張るんだ。だって明日は、日本中の恋する女の子が一年で最も張り切っちゃう日。
急いで帰って、今度はお母さんのアドバイスももらいながらチョコを作った。さすが一流パティシエ。不器用なあたしでも、ずいぶんおいしそうなチョコができた。
もう一箱あったから、今度は自分用に作る。どうやら仁王くんのお兄ちゃんは、あたしに食べさせてくれないようだから。
一年で最も張り切っちゃう日。明日が楽しみだ。
喜んでもらえますよーに。
END
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