「はい!男子部の試合に同行するだけでなく、我々も彼らがいないときなど、時たまコートを使えるようになりました!」
「…真田も余計なこと言わないで欲しかったわ」
「途中真田くんが憤慨して危なかったんですが、武士に二言はないらしいので!」
「アンタまた何しでかしたのよ」
「いえ何も!」
嬉々とするあたしと違い、切原さんはやや難色気味。どうやら今までのようなお遊び感覚ならいいけれど、本格的に練習となると嫌な様子。でも巻き込みますよ、切原さん。
今はお昼休みで、本当は禁止されてるのに女子テニス部部室(呪いの部屋)にてランチをとっている。
やっぱりそれも切原さんの意向。今日のことについて、相談があるらしい。
「はぁー、うまくいくかなぁ」
「大丈夫ですよ!頑張って作ったんですし!」
「すっげー他人事」
切原さんは、手元に置いてある紙袋を握り締めた。
それは、その中身は、チョコ。そう今日は、バレンタイン。切原さんは今日放課後柳生くんのところへ行って、そのチョコを渡すらしい。
切原さんが言うには柳生くんは他のテニス部同様、やはり中学時代からモテていたらしく、きっと今の学校でも競争率が高いんじゃないかって。それで不安そうにしてる。乙女ですね!
「アンタこそどーすんの?」
「はい?」
「それ、結局渡すの?」
あたしの、例の腹巻きが入った袋も横の椅子に置いてある。結局ずーっと渡せず。今日という日なら渡せるかなって。丸井くんはそれよりも食べ物も欲するだろうから、一応手作りチョコも添えて。…でも。
「それがですね」
「なに、長くなるならやめてね」
「渡すタイミングがないんですよ」
「へー、そりゃ残念」
すっごく冷たい!めちゃくちゃ冷たい!あたしのことよりも自分のことしか今は考えられないようだ。仕方ないか。
あたしだって、切原さんがうまくいけばいいなぁとは思うけれど。あたしこそうまくいくのかどうか、そもそも渡せるのかどうか不安過ぎる。
クラスも違うし、わざわざ教室まで行ったら今日なんてバレバレだ。かと言って放課後待ち伏せも、他のテニス部がいるしなぁ。
「ところで、切原さんはどうやって柳生くんに渡すんですか?待ち合わせしてるとか?」
「や、……そういや考えてなかった」
「ええ!もう数時間後で放課後ですよ!」
「うるさいなぁ。…下駄箱にでも入れようかな」
「いやいや、他校だし中には入れないですよ!」
「うーん…」
割と計算高めな切原さんも、肝心の渡すシーンについては考えてないとか。お互い難儀ですね。
……下駄箱?
「そうだ!」
「なによ、でっけー声出して」
「いえ、独り言です!」
声がデカいだけでなく全然役に立たないと切原さんにはぼやかれたけれど。
そうだ。あたしこそこっそり渡すパターンにしよう。同じ学校だし、それなら容易い。
もちろん理想は手渡しだけど。もしも無理だったら、丸井くんの……下駄箱は何となく丸見えだし、教室のロッカーにでも入れよう。
例え目標が厳しくて苦労しても、妥協案や逃げ道があると心が軽くなる。
そればかりでなく、あたしのような甘ーい人間は、そっちがハナから目標のように錯覚してしまうけれど。
放課後、校門で切原さんを決戦に送り出し、あたしは教室の方へと戻った。
ふと空を見上げると鉛色の空だった。空気もシンと冷たくて、雨というよりは雪が降りそう。
もう授業も終了してけっこう経った。テニス部や他の部活もパッと見練習が始まってる。教室にももう生徒はいないだろう。
そう確信し、あたしは自分の教室から例のプレゼントを抱えて1年C組、丸井くんのクラスに向かった。
一応外から覗いたけれど中には誰もいない。よし、チャンスだといざ踏み出した。
丸井くんのロッカーは、名前の部分に“ブ”とだけ書いてある。他のみんなはフルネームだったりするのに。何だか丸井くんらしいなぁ、なんて。
微笑ましく思いながらロッカーを開けた。
さっきから空が暗くて教室も薄暗いけど、はっきり目に映った。
「………」
これは明らかにバレンタインのプレゼント。そう丸分かりな物体が一つ、入ってた。丸井くんの髪色のように鮮やかな赤い包装物。
そうだった…テニス部はめちゃくちゃ人気者なんだ。今日だって同じクラスの幸村くんや仁王くんが何度呼び出されていただろう。その度に何度仁王くんが舌打ちしてただろう。幸村くんの鉄壁な笑顔が崩れかけてただろう。
丸井くんだって。いや、お菓子の好きな丸井くんはなおさら。たくさんの女子からプレゼントを貰ってるはずだ。
あたしもその一人なんだ。この中にあるプレゼントを用意した人も、あたしと同じように渡せなかったのか、丸井くんがロッカーにしまって置いたのかはわからないけれど。
ここに、この中に、同じようにあたしも入れるの?誰からだかわからない物と一緒に?それでいいの?
ふと、更に奥の教科書類が目に入った。ああ、丸井くんは置き勉派なんだな、やっぱり彼らしいなぁと思ったけど。
不自然な物があった。
「……フランス語?」
本屋さんの旅行雑誌コーナー…いや、もっと本格的な、語学コーナーにでもありそうなフランス語会話の参考書があった。その隣には英会話のものも。
…丸井くん、フランスに旅行に行くとか?少なくとも英語は話せるようにとか?旅行で?本格的にマスターしたいタイプ?
“俺じゃなくて”
仁王くんが言った言葉、それとともに一つ思い出した。
あたしは全然縁がないというか、そんな希望もなかったからずっと頭にはなかったけど。
立海には留学制度がある。国や分野、期間の短長は何種類かあったはずだけど。
その中に確かに、パティシエ講座があった。
ガラッと、扉が開く音がした。
「……高橋?」
最悪なタイミングだ。何故か、練習をしてると思ってた丸井くんがいた。
「え…、なにしてんの?」
「いや…!」
丸井くんの視線はあたしの真ん前、つまり自分自身のロッカーに向いた。
そしてあたしは体でも隠せないサイズの袋を持ってる。バレちゃう。
「それ、もしかして俺に?」
「…え」
「俺にくれんの?」
バレバレなんだから。渡したい相手がいて、しかも俺に?って聞いてくれてるんだから。後はあたしが、はいって答えて差し出すだけ。
なのに、あと一言が出ない。
「……ま、丸井くんこそ、部活は?」
「…あー、俺は」
聞きたいのに聞けない、前なら何でも質問してたのに、丸井くんに何も聞けなくなっていってた。
聞きたいこと以上に、聞きたくないかもしれないことが増えてしまったから。
「担任と面談してた」
こないだの仁王くんに続いて、テニス部は面談が流行ってるのかなぁ、なんて呑気に思う一方。少しずつ予感が確信に変わっていく。
低い鉛色の空のせいで、電気もつけていないこの教室は薄暗い。それとともにシンと冷える空気から、雪が降るかもと思ったけれど。
それとは別の寒さがあたしを襲う。
「留学のことですか?」
あたしが単に聞けなくなってただけで。
丸井くんはいつだって、あたしの質問には答えてくれるんだ。面倒臭がらず、くだらないことでも律儀に。前もそれは今も。
「うん。次の留学実力考査、受ける予定」
一気に身体中の体温がなくなった気がした。
何であたしが知ってるのか、不思議ではあったかもしれない。あたしも仁王くんからヒントを貰って、今ここでロッカーの中を見て、そうなのかなって予想しただけで。
でも丸井くんは、全然驚いてもなかった。笑うでも怪訝そうにもせず。
ただ視線は床に落ちた。
「…嫌だ」
顔が歪む以上に心が歪んでる。あたしにそんなこと言う資格なんてないのに。
留学なんてそう長くもないし、一生会えないわけじゃないし、また同じように同じ校舎に通える日がくる。でも。
例え仁王くんでも幸村くんでも切原さんでも、たった今あたしの周りから立海から消えてしまったら、寂しいことこの上ない。それが丸井くんなら…。
「…応援してくれると思ったんだけどな」
寂しそうに呟いた丸井くんの声で、すごく胸が痛くなった。胸だけじゃなく、鼻も目頭も。泣いてる。
あたしは今しか考えられないんだ。成長したかったのに、少しずつでも進歩してると思ったのに。
たった今いなくなるだけのことなのに。今しか考えられないあたしは、最低なことを言ってしまった。
留学はきっと丸井くんにとって、将来の夢として、大事なことなのに。あたしなんかよりもずっとずっと。
「……ごめんなさい…っ」
自分勝手さに耐え切れなくて、丸井くんにも申し訳なくて。走って逃げようとした。これじゃ結局プレゼントは渡せない、そう思ったら、もっと涙が溢れてきた。
もう扉をくぐる手前で。あたしの腕が強く引っ張られた。そのまま後ろ手に引かれて、行き着いたのは丸井くんの腕の中。
「ま、丸井く…!」
「聞いて」
何だか丸井くんも泣いてるような気がした。耳元で聞こえる呼吸が少し乱れてる。
それでももう自然と、逆に不思議なくらい体は勝手に熱くなった。まるでさっき失った体温を戻してくれたみたいに。
「俺さ、欲張りだから。レギュラーにもなりたかったし」
「……」
「パティシエも、ウダウダ迷ってんなら、今出来ることやりたいって」
「……」
「あともう一つ。手に入れたい、大事なものがある」
ものってわけじゃないけど、そう小さく言うと丸井くんは、ぎゅっと腕に力を込めた。
それって何ですか?あたしは知らないものですか?わからないことですか?
あたしは丸井くんの大事なものに入ってないですか?
そう聞きたくてもやっぱり聞けない。
でもどんどん丸井くんの腕の力が強くなっていく。苦しいのと、ドキドキと、単純に抱き締められてるうれしさと。
あたしの手に入れたいものこそ、この腕の中だ。
「丸井くん」
少し強めに体を離すと、丸井くんはすんなりあたしを解放してくれた。
「さっきは変なこと言ってごめんなさい。あたしは丸井くんの夢、応援しますから」
出来る限り笑ってそう言うと、丸井くんも微かに笑ってくれた。
その言葉をきっと今、丸井くんは一番求めてる。
丸井くんはあたしから離れ、自分のロッカーの方へ歩いていった。
「…これ、お前に」
中から出したのは、あたしがさっき見つけたプレゼントらしき包装物。まるで丸井くんの髪色のように、きれいな赤いラッピング。
それを持って、再びあたしの元へ。
「手作りチョコ。俺が作ったんだ」
「…え」
「今日、なかなか渡せなかったけど。今会えてよかったぜ」
「……あたしに…」
「受け取って」
誰か他の女子から貰ったんだと思ってたのに。あたしと同じように、渡せなかった人からのものだと。
丸井くんもあたしと一緒だったんですか。
「はい…っ、ありがとうございます」
「いーえ」
「…あたしも、これ」
ようやく渡すことが出来た。作り始めたのは丸井くんと付き合ってた頃。初めてだから、なんて言い訳してたけれど、結局は迷いながら編んでたから、時間が延びただけ。
迷いながら編んだこの腹巻きは、編み目もガタガタだしダサいだろうけど。丸井くんのことをきっと温めてくれると思う。
外では雪が降り始めていて、ちょうど良かったと思った。
「ありがとな」
「いえ、こちらこそ」
「じゃ、そろそろ部活行くわ」
「はい。頑張ってください」
何も言葉を繋げはしなかったけど。
丸井くんと向き合って、名前を呼ばれた気がした。あたしも丸井くんを呼んだ気がした。単に頭の中でそうだっただけ。
でも丸井くんの顔が近づいてきて、あたしも顔を上げた。ほとんど二人が同時に手も触れ合って、唇を重ねた。二度とないかもしれないと思ったことなのに、すごく自然と。
頑張ってくださいねと、触れた唇に精一杯、気持ちを込めた。
芯から冷える体がこれでまた、あったかく感じられた。
丸井くんは夢を追いかける。あたしはその背中を見送るんだ。