@わかれること。はなれること。離別。
(引用:広辞苑 第六版)
「……え、なに、アンタなに?」
朝、切原さんは教室に着くなり不気味がるかのような声をあげた。その切原さんの目に映ってるのは、間違いなくあたし。
机に広げた広辞苑の上に顎を乗せ、濡れるのも構わずドバドバと涙をこぼしていたから。
「なんなのその分厚い本。国語辞典?てか泣いてんの?」
「……こうじえんです」
「なんかそれびしょ濡れだけど大丈夫?コージエン」
あたしより広辞苑の心配するなんて。…まぁそんなことはいいけれど。
“じゃあな”
丸井くんから昨日言われた言葉。あれは単に、“じゃあまた明日な〜”なんていう前向きなニュアンスじゃなかった。
別れよう。そう言われた気がした。
「おはよう」
ウジウジめそめそしたあたしを、切原さんは特に慰めることもせず、携帯を弄ってた。…いや別に慰めて欲しいわけではないですが。こないだ協力したのにちょっと冷たくないですかね。
そんなところに朝練が終わったのか、幸村くんと仁王くんがやってきた。
「あ、おはよー。聞いてよ、裕花がなんか変」
「高橋さんが変なのは元からだろ」
笑いながらそんな憎まれ口を叩いた幸村くんは、あたしを二度見した。幸村くんにしてはなかなか貴重なリアクションだと思う。
「うーん、どうしたのって聞いたほうがいいのかな」
「いやー、そっとしといたほうがいいっしょ。面倒臭いし」
何度でも言いますが、幸村くんは平常運転だとしても切原さんは冷たくないですかね。あたしは先日切原さんにとても協力して………。
ふと、後ろの仁王くんをチラリと見ると。目は合ったものの、たぶんお互いすぐに逸らした。
別に仁王くんのせいじゃない。あたしが丸井くんに嘘をついて、丸井くんをあんな気持ちにさせちゃったんだ。丸井くんのことを考えるべきだったのに、あたしは自分のことしか考えてなかった。だからこの話に仁王くんは関係ない。
なのに何でだろう。仁王くんはこっちを見てるかわからないのに、後ろに意識がすべて行ってしまう。
まるで彼があたしを見ていることを期待してる……。
その正体をたぶんあたしはわかってる。あたしは丸井くんだけでなく、きっと仁王くんのことも振り回してるんだ。
仁王くんが関係ないことはなかった。
「……に、仁王くん」
意を決して振り向いた。ちょうど先生が入ってきたところだった。
「お昼休み、時間ありますか」
「ああ」
「じゃあ、うちの部室に…」
了解、と、とても小さく呟いた。
隣の幸村くんや後ろの切原さんから不思議そうに視線を注がれたけれど。見ないふりをした。
本当に部室は景色が悪い。理科室前の廊下しか見えなくて、扉を閉めてしまったら、もう学校から切り離されたような密室感がある。
お昼休みが始まってしばらくすると、コンコン…って、ノックする音が聞こえた。控えめなこの音でも、今のあたしの心臓には悪い。
扉を開けると、約束通りに来てくれた仁王くんがいた。
「す、すみません、貴重な休み時間を」
「いや、別に」
仁王くんはあたしと目も合わせずに、真っ直ぐ椅子に座った。
あたしも慌てて仁王くんの向かいの椅子に座る。
「怒られた?」
「…え?」
「ブン太に。先週一緒におったこと」
きっとあたしが今日、朝っぱらから泣いてたもんだから。幸村くんや切原さんにはわからなくても、仁王くんにはすぐ察しがついてたんだろう。
「…怒っては、いたと思います」
「だろうな」
「でも、それについての説明はちゃんとしました」
「ああ、ブン太にキスマークついとったからのう。仲直りもしたんじゃろ」
そう、あたしはあろうことかハッキリ見える位置につけてしまった。それについて丸井くんは少しだけ難色気味だったけど。その後は、まったくお前はーって、うれしそうに笑っていた。
「…でも」
「……」
「……終わって…、しまいました…っ」
我慢してたんだけど。いや、朝は広辞苑の“別れ”の意味を調べて泣き耽っていたけど。実際に“別れ”って何だろうって思ってね。
丸井くんと離れるってこと。もう二度とくっつけないってこと。
それからあたしは泣きながら、上手く言葉にならないこともありながらも、昨日の話をした。仁王くんは黙って聞いてくれた。
あたしは丸井くんが好きだけど、仁王くんにいい顔もしたかったと、汚い自分の心を正直に告げた。
「…仁王くんからの気持ちは、すごく、すごくうれしいです」
「……」
「でもあたしは、丸井くんが好きです。世界中の男性から好意を寄せられても、丸井くんを選びます」
それが昨日一晩考えた結論だった。
もう傷つけちゃって、きっと丸井くんの中では終わってしまったんだろうけれど。
遅過ぎるとは思ってない。もっと丸井くんを大事に考えるべきではあったけど。
あたしはあたしの純粋な、譲れない気持ちに気付けたから。
「…か、片思いには慣れてるのでっ」
「……」
「その…、仁王くんには、ちゃんと言っておきたいと、思ったので」
仁王くんだってあたしのかけがえのない人だ。立海での学校生活を支えてくれてる人。最初は何この性格悪い人って思ったけれど。
だからこそ、何事もなかったようにするべきではなかった。仁王くんにはハッキリ伝えて、丸井くんが不安なら隠さずちゃんと言うべきだった。
今度は間違えたくない。あたしは丸井くんが好きで、例えもうくっつくことは出来なくても。
あたしはあたしの思いを貫きたい。
全部言い切ったところで、仁王くんの口から、はぁーーと、盛大なため息が聞こえた。
…え?もしかして、また間違えた?こんなこと仁王くんに言うべきじゃなかった?…いや、本当はちょっと迷ったんだけれど。別に仁王くんから付き合ってまでは言われてないし。わざわざあたしから言うなんて、自意識過剰だったかしら………。
戸惑っていると、仁王くんは笑った。
初めて彼の笑顔を見たとき。和らぐんだと気付いたとき。そのときとまったく変わらない。
「…かっこいい告白」
「…え」
「そんなこと言われたらもう、清々しい気すらしてくるのう」
“世界中の男性から好意を寄せられても、丸井くんを選びます”
かっこいい告白って、このこと?
「お前さんのこと残念なやつと思っとるが」
「まだ!?」
「そーいう真っ直ぐなところ、素直に尊敬する」
今更ながらに恥ずかしくなった。本人に言ったわけでもないのに。顔が熱い。でもそれがあたしの結論だから。
「お前さんを困らせちまったし、ブン太にも悪いことしたし。後悔も、正直したんじゃけど」
「……」
「そんな気持ちにさせてもらって、ありがたくも感じるぜよ」
仁王くんの言ってること、というか仁王くんの今の気持ち。あたしにはよく理解できないけど。
でも…。仁王くんも仁王くんで、大切にしたかった気持ちがあったのかもしれない。大切にしたい気持ちが今できたのかもしれない。
あたしもあたしで、大切にしたい気持ちがたった今ある。
仁王くんがさっきくれた褒め言葉も。こんなあたしをキレイにしてくれる。
「じゃ、俺は行くぜよ」
「あ、仁王くん、最後に聞いて良いですか!」
「なんじゃ」
「えっと、男性目線でいいんですが。恋愛で疲れるって、どういうことですか?」
昨日、丸井くんが言ってた。付き合ってから疲れるって。それはあたしにとってとてもずっしり重く響く言葉だった。
仁王くんはちょっと考えたようだったけど。すぐに笑って言った。
「ああ、恋に愛がつくと疲れるってことか。人を思いやるから」
「……」
「お前さんは疲れないんか?優しいやつじゃな」
恋に愛がつくと疲れる?恋愛は相手を思いやるからその思いやることが疲れるってこと?というか、そもそもあたしはそれが出来なかったわけで………。
そう思っていたら、仁王くんは扉を開けて出て行った。
その瞬間外から、お疲れって声が聞こえた気がした。幸村くんの声に似ていたけど。
幸村くんがいるはずないし、さっきの仁王くんの言葉の意味を考えてて、気には留めなかった。
「偉いな仁王。ちょっと感動したよ」
「盗み聞きしとったんか」
「欲に負けて押し倒したらまずいから10分後に迎えに来いって言ったのは誰だい?」
「…あー、どうもありがとさん」
「フフ。でも残念だね、結局みんな失恋か」
「全然残念がっとらんじゃろ」
「俺は高みの見物させてもらってるだけだから」
そんな二人の会話をあたしが知る由もなく。
「…これでよかったんだよね」
こないだみたいな、すごくすごく小さな声が出た。あたしもしおらしくなってきたのかしら。大和撫子に。…いや、それはまだまだ程遠い。
あたしは結局、隠し通した。
あたしが好きなのは丸井くん。それは真実だけど。
どこかで、仁王くんのことも考えかけてた。あの鶴が頭にあった。
それは丸井くんに対する最大の裏切り。嘘をついたからじゃなくて、これが罪で、丸井くんと離れることになったと。あたしはそう心に刻んだ。
でももう終わらせた。あたしはハッキリ丸井くんが好きだとわかったから。
ここからまた片思いが始まる。大丈夫、あたしは頑張り屋さんだから。
いつかまた、丸井くんが振り向いてくれる女の子になれるように。頑張るんだ。