「青学では、関東大会の際に大石君、菊丸君ペアと対戦しましたね」
「仁王とダブルスだったんだよね」
「そうです。仁王君の作戦が功を奏しましたが、数字には表れない接戦でした」
あたしは関東大会は観に行けなかったんだけれど、どうやら柳生くんは黄金ペアと対戦していたらしい。この仁王くんと組んで。
…あれ?そういえば、あのときの試合で、英二くんに半ば故意にボールを当てた人がいたって聞いたけど。まさかこの柳生くん?…いやーでもこんな優しげな人がそんなことするはずないか。仁王くんかな。仁王くんだろうな。絶対仁王くんだろう。仁王くんめ、英二くんに何ということを。
思わず仁王くんをジロッと見ると、それをわかっていたかのように、仁王くんはフッと笑った。
…普通かな。普通になった、かな。
「では、私はそろそろ塾に向かう時間ですので」
「あ!あたしもちょっと用事あるから、途中まで柳生君と一緒に行くよ」
まぁまぁ話も弾み、というかあたしの知らない思い出話に花が咲いたようで。日が沈みかけたところで、柳生くんはお暇すると席を立った。
…もうすでに化けの皮が剥がれていたとはいえ、切原さんもファイターですね。柳生くんの後を追って行ってしまった。
「……あ、あたしたちも帰りますか」
「ああ」
残された二人でカフェを出た。確かに今日は切原さんのお願いであり、切原さんの恋愛成就の協力をしたいと思ったけれど。
…結果的に今はとてもまずい状況ではないかと。駅まで歩く短い道のりで気づいた。
「…あたしは、こっち方面なので!」
「……」
「……そ、それでは〜」
改札を通って、本来ならあたしと仁王くんは逆方向のホーム。ここでさよならかと思ったけど。
「ブン太の家に行くんか?」
一歩か二歩。進めたところで仁王くんの声が聞こえた。
少し躊躇いながら振り返ったあたしは、どう答えればいいのかわかっていた。
“いい子ぶってる”
いつだったか、幸村くんに言われた言葉。さも今言われたように、彼の声で頭に響いた。
これは幸村くんの意地悪でも言いがかりでも何でもない。あたしの本性をつく言葉だ。
嘘でも何でも言わないといけなかった。次の仁王くんの言葉は予想ついていたんだから。
「……いいえ」
「なら送る」
例え目の前のこの人を傷つけることになっても、ここではノーサンキューと言うべきだった。ここだけじゃない、それまでにもあたしはずっと正解をわかっていただろうに。
どうして?
それは、あたしがあたしをいい子に見せたいからなんだ。うれしそうに笑った仁王くんを見て思った。
こんなので丸井くんのことで頭がいっぱいなんて、きっと誰もが笑う。
「へー、ブン太んちと近いんじゃな」
「丸井くんちに行ったことあるんですか?」
「ああ、中学のときな。ちっこい弟と遊んだ」
「あのミニ丸井くんですね!かわいいですよねー」
電車でガタンゴトン、先に丸井くんちがある駅を通り過ぎた。仁王くんと一緒に乗るのは2回目だ。前はパンケーキ屋さんに行ったとき。…あのときはあのときで修羅場だった。
「ブン太とはうまくいっとるんか?」
「あ、はい。まぁ、俗に言うラブラブな感じで」
「そうか。それはよかったのう」
この優しげな笑顔。先程柳生くんが見せてたような表情で、優しげなのはそれを連想するからかもしれないけれど。
きっと、仁王くんに思うところはあったとしても、今の言葉は嘘じゃない。それは素直にうれしい。それでも、心の中の何かがざわめく。
先に気づいたのは仁王くんだった。
「…じゃ、俺はここで」
送るとは言われたものの、本当に家までなのか疑問…というか不安だったところ。電車も降りて改札も出て、外へ出る階段も下がったから、やっぱり家までなのかなぁと思っていたら。
目の前の横断歩道を渡る直前、仁王くんは突然踵を返した。
「え?」
「じゃあな。また月曜」
そう言い残して足早に去っていった。
その様子が不自然で、さよならも一応のありがとうも言えず。戸惑いながらもともとの進行方向に視線を戻すと。
「………丸井くん!?」
もう辺りは暗くなり始めてて、少し距離はあったけど。向かいのパン屋さん前のガードレールに、浅く腰掛ける丸井くんがいた。
急いで横断歩道を渡って駆け寄る。
その間、丸井くんは高熱なのに大丈夫なのかという心配に加え、さっきの仁王くんを見ていなかったか。そんな心配までした。
「ど、どうしてここに?」
「……」
「体調は大丈夫ですか?熱があるんじゃ…」
おでこに手をかけようとした瞬間。丸井くんはあたしの手を払った。
熱のせいか、少し赤い顔と目が、あたしを鋭く捕らえる。
「…なんで一緒にいんの」
仁王くんが気づいただけじゃなかった。丸井くんも気づいてた。
そのことにまずいと思ってしまうこと、それはもうやましいからに他ならないのかもしれない。
「……切原さんに、誘われて」
「……」
「柳生くんっていう中学のとき立海にいた方と、お茶するから一緒にって」
「……ヒロシ?」
ああそうだった。柳生くんは中学ではテニス部レギュラーで。当然、丸井くんも知り合い、というか、この呼び方からするに親しかったわけだ。
丸井くんは、不満そうにしながらも、一応あたしの話は聞いてくれた。切原さんには申し訳なかったけれど。仁王くんが来ることは知らなかったと、そうも言った。
事実だけど。必死の言い訳みたいで。
自分が心底かっこ悪かった。
「じゃあ、仁王と二人で遊んでたわけじゃないと」
「もちろん…!」
「そーかよ」
丸井くんは力無く俯いた。俯かせたのはあたしだ。何をやってるんだろう。一番大事な人を、こんな悲しませて。
“そんな顔させたかったわけじゃない”
今度は仁王くんの声が聞こえた気がした。
あたしだって、いくら自分がいい子に見られたいからって。だからと言って、丸井くんを悲しませたいわけじゃない。
丸井くんは、ただ俯いただけかと思ったけれど。本当に具合が悪そうに、そのまま前に倒れ込みかけた。
「ま、丸井くん!」
「あー、大丈夫…」
「大丈夫じゃないっ」
こんなときまで大丈夫だなんて。あたしへの配慮だとしたら、それは今は胸が痛くなるだけだ。
悲しませただけじゃなくて、体調悪いのに心配かけて。
「とりあえずウチに」
「え…」
「親が帰ってきたら、車で送ります!」
本当に心から心配なんだ。申し訳ないことしたとも思ってる。
ただ、口にするのは白々しくて。嘘だって、それも言い訳だろって、そう思われたらどうしようって。
何も言えず、丸井くんを家に連れ込んだ。
「横になっててくださいね」
家に帰っても親はまだいなかった。両方とも帰ってくるのは19時過ぎだ。
丸井くんをベッドに寝かせ、あたしは温かいお茶を準備しにキッチンへ向かった。
…風邪のときだからお菓子なんかは食べないほうがいいだろうしな。でも丸井くんのことだから、お腹空いてるかも。
お湯を沸かし終わったとき。あたしはあることに気づいて固まった。
そのあること、とは。丸井くんに見つかったらまずいもの。
「丸井くん!!」
自分ちだからね。ご近所さんに迷惑にならない程度なら、叫んでも問題ない。丸井くんが風邪で寝込んでるところに申し訳ないけれど。
勢い良く部屋に入ると、丸井くんはあたしの机の前に立ってた。
…良かった。アレは学校の鞄の中だから。鞄を開けられていない限り、バレてない。
「なに?」
「…い、いや。……寝てなくて大丈夫ですか?」
「ああ、今はちょっとマシ」
そう言って、丸井くんはベッドの上に座った。出来れば寝ていたほうがいい気もするけど。鞄を横目で見ながら、あたしも床に座った。
あの鞄の中にあるもの、それは。
編みかけの腹巻き。
近頃寒くなってきたし、クリスマスも近いしで、丸井くんに手編みの腹巻きをプレゼントしようと思ったんだ。腹巻きなんて色気はないけど、体でどこを優先的に温めるべきかって考えたら、やっぱり腹巻きかなぁって。
もうちょっとで完成だから。完成までは秘密にしたい。
…というか、丸井くん、机のところで何してたんだろう。別に机には特に見られちゃまずいものはなかったはず………、
「裕花」
「は、はい?」
「もっとこっち来て」
言われた通り丸井くんの前に立つと、丸井くんは座ったまま、あたしを抱き寄せた。ぎゅーっとキツく。うまく体勢を維持出来なくて、あたしは丸井くんの膝の上に乗っかった。
無言なのに、これだけで丸井くんがどんな思いなのか。痛いほど伝わってきた。
でも、丸井くんごめんと、謝ったら謝ったで別の意味を持ちそうで、言えない。
「ま…ブン太くん」
「んー」
「キスしていいですか?」
あたしの問いかけに、丸井くんは顔を上げた。少し驚いたような顔だった。
でも、ちょっと恥ずかしかった、勝手に照れてたあたしの顔を見て、すぐに笑った。いつもの、あのキラキラした笑顔だ。
「許可いらねーよ」
「あ、すみませ…!」
あたしから言い出したけど。結局、丸井くんからさせてしまった。
柔らかくて優しい丸井くんからのキスは、いつも通りあたしに安らぎとドキドキを与えてくれるのと。
今は、胸に痛みも与える。あたしはもう何も考えたくなかった。
「親、何時に帰ってくんの?」
「えーっと……19時半前後かと」
「そっか」
さっきまではフラフラで、一人で帰れそうもなかった丸井くんだけど。
もうすっかり良くなったと思っちゃうぐらい力強く、あたしをベッドに倒した。
「じゃあさ」
「ん…っ」
でもやっぱりまだ熱はありそう。あたしの舌や耳に丸井くんから熱が伝わって、溶けそうだ。あたしこそ熱が出てきたみたい。
丸井くんを体が覚えてる。丸井くんを求めてる。
「エッチしていい?」
「…きょ、許可はいらないので」
「言うじゃん」
笑う丸井くんに、その前に体調はどうでしょうと言いかけたけれど。また熱い口に塞がれた。
丸井くんはこのとき何を考えてたんだろう。こないだと同じように、幸せを感じてたんだろうか。
少なくともあたしは幸せだった。
ただ、今日のあたしにそれは相応しくなかった。
「なぁ」
「はい?」
親が帰ってくる直前だった。不自然なことはないようにと、あたしも丸井くんも制服や髪を整え合ってた。
…余談だけど、マジで敬語は禁止って言われたので、本当にほんとーに、あたしは頑張るつもり。
「仁王って、お前のこと好きなの?」
そう言えばさっき、丸井くんは立ち上がってあたしの机の前にいた。そのことに引っかかりを感じてたんだけど。
………何かしてた?
「それはないで…しょ」
「ふーん」
丸井くんに嘘をついたら、ついた後の自分が嫌になると、それこそ一番わかってたはずなのに。
今日のあたしは最低だ。