世界は堕落していく




あの会議室での一件以降、私はトラファルガー室長を避けていた。もともと同じ営業企画室内に属しているとは言え、業務上の接点はさほど多くないから、それは簡単なことだった。朝のミーティングや情報共有の場では、室長以外のメンバーも必ず揃っているし、二人きりになる機会自体ほとんどないのだから。


だからこのまま"犬に噛まれた"あの忌々しい記憶もそのうち風化していくだろうと、室長の姿を見かける度にざわつく心臓をそっと押さえながら、背を向け続けてきたというのに。……ああもう、何でこんなことになってしまったんだろう。



「おいミヨジ、大丈夫か」

「っ、大丈夫ですから…」

「送っていく」

「結構です…!」



今日は営業企画室のメンバーで、先期の打ち上げと称して飲み会が開かれていた。明日は休みという金曜日の解放感から、羽目を外した同僚の餌食になってしまった私は、情けなくも足元が覚束ない状態で。

その様子を見かねてなのか…はたまた別の思惑が働いているのかは分からないが、ほかのみんなを先に二次会へと向かわせたトラファルガー室長が、私の腕をがっちりと掴んで離さない。



「本当に大丈夫ですから、室長はみんなのところへ戻って下さい」

「ローだ」

「…え、は…?」

「室長じゃねェ、ローだ」

「…呼べません」

「呼べ、命令だ」

「呼べません」

「強情な奴だな」



居酒屋が軒を連ねる繁華街の道の傍ら、さっきから私と室長は不毛な押し問答を繰り返している。アルコールの入った身体は夜風に当たってもなお火照りを帯びて、正常な判断力を私から奪っていくみたいだ。



「放して下さい、なんで私に構うんですか」



強がる言葉とは裏腹に力さえも上手く入らず、振り払おうとした室長の腕に逆に強く引き寄せられ、その胸元へ凭れかかってしまった。布越しに伝わる感触と体温、ふわりと香った煙草の匂いは、今この場には居ない恋人の姿を連想させる。だがそれが似て非なるものであることは、早鐘を打つように騒がしいこの胸が証明していた。



「おまえのことが気に入った。だから欲しい」

「…っそんな、子供みたいなこと…」

「男はみんなガキなんだよ。それともお前の男は、行儀も聞き分けもいいお坊ちゃんか?」

「……やめて下さい」

「おれは自分が欲しいもんは、どんな手を使ってでも手に入れる主義だ」

「や、だ…やめて…」

「ナマエ、もう一度言う。おれはおまえが欲しい」



はっと息をのんだときには、すでに後頭部に回された大きな手に動きを封じられ、二人の唇は重なっていた。そして呼吸も理性もすべて奪い尽くすようなこの激しい口づけを、心の奥底深くで期待し望んでいた自分自身に気付いた瞬間、私は抗うことをやめた。




*****




唇を重ねたあと、同じように身体を重ねることは容易かった。引いていたはずの一線は脆くも消え去り、三十六度の生温い人肌と同じ罪を共有した夜は過ぎて、いやになるくらい眩しい朝がやってきた。



「なんだ、今さら罪の意識ってヤツにでも苛まれてんのか?」

「……普通は気に病むと思いますけど」

「何を悩む必要がある?おれのとこへ来ればいい話だろ」



私のアパートで朝を迎えた室長は、昨日脱いで少し皺になったスーツを身に纏いながら、恋人を裏切って一夜の過ちを犯した相手へそんなふざけたことを事も無げに言ってくる。女をとっかえひっかえしている男の口から出る言葉としては、最低最悪だ。



「何言ってるんですか…」

「言っただろ、おまえのことが気に入ったと」

「室長、自分が社内でどんな噂されてるのか知らないんですか」

「ハッ…信じようが信じまいがおまえの勝手だ」

「冗談はやめて下さい」



これ以上その言葉に耳を傾けていては、ろくなことにならない気がして。伸ばされた長い腕に捕まってしまう前に、朝刊を取り行くのを口実にして玄関へと逃げた。



「……冗談じゃねェんだけどな」



後ろで何か言ってたような気もしたけれど、そのまま無視して郵便受けから顔を覗かせている新聞を抜き取る。リビングへと戻りながら、大きな文字が躍る見出しに軽く目を通していると、ガチャガチャと予期せぬ音が鳴ってその一瞬のち――…



「おはよーナマエちゃん、起きてるかい?」



紙袋から飛び出した長いバケットを抱えたサンジくんが、合鍵をズボンのポケットへ仕舞いながら玄関先に立っていた。





2012.10.25





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