欺けるのならばただひとつわたしのこの感情を




トラファルガー室長とキスをしてしまった。重なった唇だとか、身体を這う彼の手の感触が未だ残っている。身体の奥深くで燻っている火種を、確かに感じる。それが中途半端に行為を終えたからこその名残なのか、また別の意味を持っているのかは分からないが。


結果として、あの場はキスだけで終わった。もちろんあともう少しで浅黒く大きな手は、私の服の中へ易々と侵入し、遠慮なく素肌を犯しただろう。だがそれは幸運にもタイミングよく鳴り響いた室長の携帯電話のお陰で、回避することが出来たのだった。



「ナマエちゃん?そろそろ夕飯が出来上がるけど、疲れてるなら先にお風呂にでも入ってくるかい?」

「え…ああ、うん…ごめん、ぼーっとしてた」

「どうしたんだい?会社でイヤなことでもあった?」

「…ううん、大丈夫!せっかくのサンジくんの料理だもん、温かいうちに食べよ」



月に一度の店休日である今日は、サンジくんが私のマンションへとやって来ていた。お店の厨房よりもずっと小さな我が家のキッチンでサンジくんが手料理を振る舞い、美味しいワインを飲みながら一緒に朝まで過ごす日。


――そんな貴重な時間に、私は何を考えていた…?

馬鹿馬鹿しい。あまりいい噂は聞かない室長のことだ、きっと今日のあの行為だって特に意味はないんだろう。私の反応を見て楽しむ、たちの悪い悪戯に違いない。犬にでも噛まれたと思って、もう忘れてしまおう。



「無理しちゃダメだよ、ナマエちゃん」



咥えていた煙草を灰皿へ押し付けると、カウンターキッチンから出てきたサンジくんが、私の頬へと手を伸ばした。ふわりと香った香辛料と、彼がいつも吸っている煙草の匂いに包まれる。



「……ん、分かってる」



そっと触れた唇が可愛らしい音を立てて離れた。優しく甘い、サンジくんのキスだった。何十回、何百回と繰り返してきた、いつもと同じ口づけ。それは私の胸を熱く焦がすような激しさはないけれど、不安定にたゆたう鼓動を落ち着かせるには十分で。



「ね、ご飯食べたら、一緒にお風呂入ろう?」

「……珍しいな、ナマエちゃんからそんなこと言うなんて」

「私だってサンジくんに甘えたい時もあるんだよー」

「ははっ、そっか。もちろん、おれはいつだって大歓迎だよ」



お姫さまの仰せのままに、なんて歯の浮くような台詞をさらりと口にしながら、サンジくんの唇が恭しく持ち上げられた私の手の甲に落ちた。



「……サンジくんは、優しいね」



そう、サンジくんはいつだって優しい。女の子には誰にだって優しくて紳士的な態度を崩さない彼だけれど、彼女である私に対してはさらにその上をいくお姫さま扱いだ。

私がどんなわがままを言っても、理不尽な八つ当たりをしたとしても、彼は怒らない。困ったように笑いながら、それでもそばに居てくれる。抱きしめてキスをして、甘やかしてくれる。



「それはナマエちゃんを愛してるからだよ」



最初はひたひたと足首が浸かるくらいの、くすぐったい感覚だった。でもサンジくんに優しくされるたび、膝下、膝上、腰、胸とずぶずぶ甘やかされて、浸かっていって。ついには息も出来ずに溺れてしまいそうな、そんな感覚。



「私も好き。サンジくんのこと、好きだよ」



上手く呼吸が出来ない自分自身を隠すように、私も愛を囁く。惜しげもなく愛を謳うサンジくんに応えるために。そうやって確認するんだ、こんなにも愛してくれる彼のそばこそが私の居場所なんだと。


でも何でだろう。「好きだよ」と形作る唇とは裏腹に、生まれた言葉が心の奥のどこか深い深い場所にある大切なものと乖離していくような、そんな気がするのは。たぶん気のせい、なのかな。






2012.9.30





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