絡ませたなら物語のはじまりはじまり 私には学生時代から付き合っている彼がいる。整った顔立ちとスラッとした体型はモデルのようで、実際学生時代は街を歩けばスカウトの声がよくかかっていた。そして恵まれた外見だけじゃなく、内面も非の打ち所がないくらい素敵な人だ。 どんなに忙しくても彼女である私を気遣い、何よりも私の気持ちを優先してくれる。そんな私には勿体ないくらいの、素敵な彼がいる。 「……サンジくん…」 手にした携帯電話には、先ほど彼から届いたばかりのメール画面が開かれている。そこにはいつも通り私の体調を気遣う一文と、夜の仕込みを終えた短い休息の合間に私のマンションまで差し入れを持ってきてくれたことを告げる言葉が並んでいた。 小さいながらも評判のフレンチレストランを経営するサンジくんと、会社員の私の生活リズムはなかなか合わない。それでも少しでも一緒に過ごす時間を作るために、互いの合鍵を交換するようになって早数年。 会えない日が続く時もこうしてメールでの連絡を欠かさないし、忙しい時間の合間にせめてもと差し入れてくれる彼の手作りのごちそうは、栄養満点で愛情たっぷりだと思う。だけどどこか物足りなさを感じるのは何故だろう。 「…はぁー…何だかなぁ…」 何だか最近、溜め息が増えたような気がする。何が不満というわけではない。仕事はそれなりにやりがいもあるし、プライベートだってあんなに愛されてて不幸なはずがないのに。 でもいくら考えても、すっきりと納得できる理由が見つかるようには思えなくて。携帯電話を通勤鞄へ仕舞ってから、更衣室を出た。今日の仕事はもうお終いだ。 「……あ、しまった」 明日朝一番でスケジュールに入っている、営業企画会議。そこで使う予定の資料を、今夜読み込んでおこうと思っていたのに。肝心の資料をデスクの引き出しに置いてきたことに、帰る段階になって気付いてしまった。 「…はぁー…ツイてないな」 節電対策と人件費抑制のために毎週設けられている"NO残業DAY"のせいだろう、普段よりもずっと静かな廊下を歩いて、所属する部署のあるフロアへと向かう。本当はこの時、もっと注意深く周りの気配に気付くべきだったのだ。 さっさと取りに戻って帰ろう、そう思って来た道を早足で引き返した私は、フロア内に残っていた人影に気付くのが遅れてしまった。 「…んっあ、ふ…」 フロア入口に並べられた観葉植物のせいで顔は見えないが、静かすぎる部屋にやけに響いた淫靡な水音と荒い呼吸、そして衣擦れの音がいやでもその先で行われている行為を連想させた。 まさか全く関係のない部署までわざわざやって来て逢引する男女はいないだろう。ということは、観葉植物の向こうで縺れ合っているであろう人物は自分もよく知っている人間のはずで。ああもう、気まずいったらありゃしない。 己の間の悪さに唇を噛みながらも、タイミングを図って資料だけでも取りに行けないものだろうかと、そっと緑に隠れたフロアの奥へと視線を遣ったその時である。 「…っ、」 「………」 奥にいる人物と、目が合った。浅黒い肌とは対象的な白いワイシャツ、ピンストライプのダークグレーの細身のスーツに身を包むその人は――。 「っふ、あ…トラファルガー室長…もっと…」 猥らな音を立てながら深く絡まる舌と貪るような激しい口づけの合間。唇を重ねることに夢中になっていた女性が、強請るように男の首へと腕を回したその刹那。私と室長の視線が、真っ直ぐにぶつかった。そして視線はそのままに、ニヤリと口端を歪めて笑ったのだ。 もちろん会議資料なんて取りに行けるはずもなく、強く鋭い眼差しに射抜かれたら最後。弾かれたようにその場を走り去るのが精一杯だった。 2012.9.17 |