シュガーコーティングは剥がれた




いわゆる、世間一般的には修羅場といわれる場面だったと思う。思う、だなんて他人事のような言い方かもしれないけれど、でも「恋人と浮気相手が鉢合わせる」という最悪の事態を前に私の頭の中に浮かんだのは、そんな傍観者のような感想だった。


玄関先に立つサンジくんが、休みなのに今日は早起きだね、なんて笑いながら手に持った焼きたてのバケットを手渡してくれる。開店準備の前に寄ってくれたらしい。

ぎこちなく微笑みながら、お礼と一緒にそれを受け取った私は、このままサンジくんが玄関に置かれたままの室長の革靴に気付くことなく立ち去ってくれればいい…なんて狡いことを考えていた。


でもそんな都合のいい思い通りの展開は、残念ながら叶わない。なかなか戻ってこない私の様子を見るためか、身支度を整え終わったスーツ姿のトラファルガー室長が、リビングへと続く扉から顔を覗かせた。



「おい、……!」



静かに目を見張る室長と、浮かべていた笑顔が強張っていくサンジくんとの間で、俯くことしか出来ない私。

沈黙の数秒間は、何分にも何時間にも感じられるような居た堪れなさで、私を頭からすっぽりのみ込んでいく。けれどこのどうしようもない居心地の悪さも、自業自得だって分かっているから。



「…すいません室長…今日のところは、お引き取り…下さい」



固まる身体を必死に動かして、何か言いたげな様子のトラファルガー室長へと頭を下げる。自分が蒔いた種は、自分一人で刈り取らなくてはいけない。



「……わかった」



私の意思を汲み取ってくれたのか、室長は溜め息まじりにそれだけ言うと去っていった。狭い玄関先で、否が応でもサンジくんとトラファルガー室長がすれ違う瞬間、うるさく跳ねる心臓が痛くて。咄嗟に俯いてその光景から目を逸らした私は、やっぱり狡い。



「……ナマエ、ちゃん…」

「サンジくん、ごめんなさい…」

「…中、入ってもいいかな…?」



小さく頷く私の背をそっと押して、サンジくんがリビングへと進む。こんな時でさえ触れた手のひらは、いつもと変わらぬ温もりを伝えてくれる。大きく枝を広げていく罪の意識に、目の前が真っ暗になった。今さらながら、私は目の前の優しい人になんてことをしてしまったんだろう。


この手を手放したかったわけじゃない。この関係を壊したかったわけでもない。ただ、すべてに満足できているとは言い難い日々の中で、降って湧いた刺激に手を伸ばしてしまった私の弱さが招いたことだ。



「ごめ、なさ…本当に…わたし…」

「ナマエちゃん、謝らないで?」

「……っ」

「さっきの……会社の人?」

「……うん…」

「そっか…」



お互いに上手く言葉が続かない。息苦しい空気だけが重たく圧し掛かってくるのが分かる。ソファに浅く腰掛けたサンジくんが膝の上で両手を組んだまま、静かに項垂れる。きらきらと輝く金髪が眩しくて、思わず目を細めてしまった。



「ナマエちゃん、ごめんよ…」

「…っな、んで…」

「きみにはいつも淋しい思いをさせてばかりだった」

「なんで?なんで…サンジくんが謝るの?」

「……休みだって合わないし、恋人らしいことも全然してあげられなかっただろう?」

「サンジくんのせいじゃない…サンジくんは、悪くないでしょ…」



だって、浮気したのは私なのに――ぎゅっと唇を噛んで言った、言ってしまった言葉。我ながら、ひどい彼女だと思う。でもサンジくんは怒らない、責めない。ただ困ったように眉を下げて、緩く弧を描いた唇だけで笑う。それは今にも泣き出しそうな、笑顔だった。



「…っなんで、私のこと責めないの?どうして笑ってられるの?私サンジくんのこと、裏切ったんだよ?」

「……ナマエちゃんが望むものを、与えてあげられなかったおれにも責任はあるんだ」

「なにそれ…そんなのっ…」

「だから、きみが悪いわけじゃない」

「…っ、もう…苦しい、よ…サンジくん…」

「ナマエちゃん…?」

「息苦しいの…ずっと、私……ごめん、なさい…っ」



きっと泣きたいのはサンジくんのほうだっただろう。でも私はわき目もふらず、ぼろぼろと涙をこぼしながら声を上げて泣いた。いつの間にサンジくんの隣が、こんなにも苦しくなってしまったんだろう。愛されることに、疲れてしまったんだろう。


どんなことがあっても私を責めず、すべて受け入れて寄り添おうとしてくれるサンジくんの存在が、今はただただ痛い。彼の思いに応えられる"私"は、もう此処にはいない。


二度と戻れない遠く離れた場所に、一人ぽつんと立っている気分だ。いつの間にこんなところまで来てしまったんだろう。理屈抜きで分かる。もうサンジくんと私が立つ線上に、同じ未来はない。二人の未来は、きっと交わらないだろう。

でも肩の荷が下りたような、足枷が取れたような、そんな心のどこかでほっとしている自分に気付いて、それが何だか悲しかった。






2012.11.7





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