Indigo Blue 1



これはずっと昔の話だ――咥えた煙草に火を点けながら、男はぽつりぽつりと語り出す。寂れた港町の小さな繁華街。週末の夜だというのに人っ子一人通っちゃいない、そんな閑散とした街のはずれ。煤けて今にも崩れ落ちそうな煉瓦造りのその店で、男はグラスを磨いていた。

一点の曇りもない透明なグラスを握る骨張った大きな手。血管の浮いたその手の甲に、首に、頬に、目尻に、額に、深く刻まれた皺は、まさに男の歩んできた人生の年輪そのもの。長年かけて刻まれたであろう皺に埋もれるようにして覗く眼光は、年月を経て柔らかさを帯びているのだろうが―…それでも尚鋭さは失っていなかった。

カウンターの隅には鉤針編みのショールを肩に掛けた、年老いた女の姿。老いた、といえども薄ら白粉をはたいた白い肌は肌理細かく、ガラス玉のように濁りのない彼女の瞳を引き立てていた。ふわりとした笑みを浮かべながら男を見つめる女は、どこか少女のような愛らしさを漂わせる。彼女の足元ではシルバーグレイの輝く毛並みを持つ猫が、ニャアとひと鳴きして甘えるように頭をすり寄せていた。



*****



そこはいつでも薄暗く、ジメジメと湿気のこもった嫌な臭いのする場所だった。眩しい太陽の日差しなんて、てんで似合わない。まさにちっぽけなこの街の、陰そのものだった。鼻をつく臭いは、道端に散らばった生ゴミのせいか…はたまた路地裏に転がるごろつきの死体から漂う腐敗臭か。いずれにせよ生きていようが死んでいようが、大して変わりはしない。そんな腐ったリンゴのようなはみ出し者たちが集まる一角に、男は根城を構えていた。


「……あ?もう一度言ってみろ」

「はい。次のベラミーの獲物が弁護士のユースタス、だと」

「…ハッ、アイツも街に戻って早々、バカな奴らに目ェつけられたもんだな」

「一点気になるのが、先日の酒場でのやり取りを奴の部下が見ていたようで…」

「フン…なるほどな。アイツにとっちゃ俺は目の上のたんこぶだ」

「無い因縁をでっち上げて難癖付けてくるような男ですから、何か仕掛けてくるかもしれません」


部屋の中央に置かれた椅子へ浅く腰掛け、尖った革靴をテーブルの上へ投げ出すという傲岸不遜ともいえる姿勢のまま、男はその深い海のような感情の見えぬ瞳に思案の色を滲ませる。彼の咥えた短い煙草の火がチリリと燃えた。


「どうしますか、シャチに探らせますか?」

「…いや、いい。余計なことしてきやがったら潰すまでだ」


そう吐き捨てるように立ち上がると、男は部屋を出て行く。ポケットに突っこんだ拳の中では、まさに渦中の人である赤髪の弁護士に渡された真っ白な名刺が、グシャリと皺を作った。

ピリッと走る緊張感はもはや吐き出す二酸化炭素のように、自然と男の周りを覆っていく。切れ味のいいナイフのような雰囲気を漂わせながら、用心深く足早に薄暗い路地を後にした。


常に張り巡らされた彼の神経が、唯一休まる場所へと向かって。



*****



「おかえりなさい、ロー」

「あァ」


乱暴に開けられた玄関扉の音を聞きつけ駆け寄るナマエへ、ローは脱いだ上着を渡す。受け取ったジャケットを抱えて微笑む女の、頬に貼られた真っ白な湿布が目に入った。

その四角い白から覗く赤く腫れ上がった肌へそっと手を伸ばせば。びくりと肩を震わせながらも逃げる素振りは見せない。そんな女の姿を確認する度、ローは自分がナマエへ与えた愚かな行為が――ひいては自らの存在そのものさえもすべて赦されているような、そんな言い様のない安堵を覚えるのだった。


「ロー…」


縋るように頭を擦り付けながら、ワイシャツを握り締める小さな身体。見下ろすローの腕は、必要以上に強い力で彼女を胸に閉じ込めた。いつだってそうだ。上手く言葉に出来ない想いを感情のままぶつけた後で、彼は籠の中の鳥を逃がさぬよう抱きしめるのだ。

二度と飛び立つことがないように美しい羽を一本、また一本と毟り取って、奪い尽くした先に残るものが――自分ただ一人であればいいと願う。


「アパートに、赤い髪の男の人が来たわ…」


今日もまた無事に"此処"へ帰って来てくれた――そう人知れず胸を撫で下ろしながら、男の心音を確かめるように耳を当てたナマエがぽつりと呟いた。


「……話したのか?」

「…ごめん、なさい」


ぐっと眉根を寄せるローの姿に、怯えたように忙しなく瞬きを繰り返したナマエが、次にやって来るであろう衝撃に備え強く目を瞑る。しかし竦めた肩に置かれた大きな手は、そっとナマエの身体を引き剥がすだけ。


「…チッ…あのお節介野郎が、」


苦々しげに低く唸ってから、ローはその疲れた身体をソファへ沈み込ませる。鋭い眼光は、被さるように乗せられた腕に隠れていた。形の良い薄い唇が真一文字に結ばれたままとあっては、表情を読み取ることも叶わない。

ナマエはそんな男の姿に戸惑いながらも、キッチンへ戻ると鍋に入ったシチューに火をかけ、冷蔵庫の中から取り出した色鮮やかなサラダを清潔なテーブルクロスの上へと並べた。


男が起き上がった時、すぐに温かな食事へありつけるように。




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