Crimson Red 3



私が悲しみ、涙し、苦しむ姿も、ずっとあなただけに見ていてほしい。どんな感情もあなただけから与えられたい。たとえ傷つけられても、それが私を形づくっていく。一つだけ願うなら、ほんのたまにでいいから私を見てください。ねえ、でも、それだけでいいと思っているのに、時折胸が苦しくなるのは、なぜ。

*******

ナマエは両頬を薔薇色に染めて、男の帰りを待ちわびていた。彼に伝えたいことが山ほどあるのだ。何から言おう、やはり一言で簡潔に言うべきだろうか、などと温かな思考を巡らせていると、程なく玄関扉が乱暴に開かれる音が家中を揺るがした。ナマエが小走りで出迎えると、何が面白くないのか仏頂面でずかずかと居間に向かう男と鉢合わせる。

「ロー、おかえりなさい」
「ん」

ろくすっぽ返事もせず、居間に到着するなりソファに倒れこみ目を閉じた男を、心配げにナマエは見下ろす。少し前までは帰宅したら形だけでも抱き締めてくれたのに、最近はいつもこうだ。心なしか目の下の隈も酷くなっているように見える。疲れているのが分かるだけに、ナマエには何も言えはしないのだった。そっとソファの側に座り込み、ローが瞳を開くまで、じっと待つ。

「メシは要らねぇ。放っとけ」
「うん」
「……何だよ」

いつもだったら、彼を心配はするけれども、起き上がるまで邪魔してくることのないナマエの姿を訝しがり、ローは目を開けた。常日頃青白い女の頬に赤みが差しているのに気付いたが、その理由を彼は知らない。幾度か口を開いては閉じ、と躊躇っていた女は、彼の強い眼差しに促され言葉を紡ぐ。

「子供、できたの」
「……」
「お医者様に行ったら、分かったの。2か月とちょっとですって」

こちらを見据えたまま微動だにしないローの目線に怯えつつも、必死で今日の出来事をナマエは語る。医者でのやり取り、自分がどれほど嬉しいかなどなど。しかし彼は、ナマエの話を鋭い口調で遮った。

「俺の子か?」
「えっ? 今、何て」
「俺の子か、と聞いた」

しばしの沈黙ののち、「あなたの子です」という一言すら絞り出せずに頷くだけが精一杯だったナマエが、幽霊の如き様子で居間を出て行った。彼女は、娼婦であった自らの過去を恥じていた。未だにそのことを持ち出しては、ローがたびたびナマエを責めてることも重々承知していた。だから言い返せなかったのだ。

ナマエの頬に光っていた涙の筋を見た彼は一つ鼻を鳴らし、起き上がるとキッチンへ歩く。テーブルに並ぶいかにも非日常的な色とりどりのご馳走に、ケーキ。舌打ちすると、彼はそれらに手をつけることもなくシャワールームへと歩いていった。身体に染み付いた血の匂いを洗い落とすために。

*******

キッドの事務所のすぐ近くには、やや寂れたカフェがある。そこで、濃いめに淹れたアールグレイとサンドイッチを食べながら新聞を読むのが彼の昼の定番であった。もちろん平日である今日もそうしていたところ、通りに面した彼の席がふいに細い影に包まれる。

日が翳ったのではない。"影"が放つ殺気めいたものに彼は覚えがあった。一面から顔を上げ、縁なしの眼鏡越しに見遣る。

「来たのか」
「勘違いするな。通りがかっただけだ」

キッドの目の前の席に腰掛けると、ローはウェイトレスにコーヒーを注文する。新聞を丁寧に折り畳んでテーブルに置き、彼はローを観察した。口調こそ相変わらずぞんざいだが口の端に抑えようもなく浮かぶ微笑は、キッドがついぞ見たことがない類のものだった。柔らかい、と形容してもよいような雰囲気すら纏っている。

「ンだよ、ジロジロ見やがって」
「好きで見てると思うのか?」
「フン」

彼は珍しく言い返さなかった。すぐさま運ばれてきた、おそらく煮詰まったコーヒーを啜り、上機嫌に言い放つ。

「しばらくしたら、足洗う。……ああ、勘違いすんな。てめぇに言われたからじゃねぇよ」

鼻で笑うと、ローは一気にカップの液体を飲み干し、立ち上がる。

「そういう道もあると思っただけだ。ま、気は変わるかもな」
「いつでも、来いよ」
「誰がてめぇの所になんざ行くかよ」

軽く片手を挙げ、背を向けて歩き去っていく背中から投げられたコインを片手でキャッチしつつ、キッドはいつまでも、彼の背から目が離せないでいた。

*******

彼が手にしているのは、近所の玩具屋で並んでいた白いクマのぬいぐるみだった。彼にはこういったものを集める趣味は毛頭ない。ただ目に留まっただけだ。柔らかく優しく愛らしいものが、そのうち現れるのであろう小さな生命に、とてもふさわしいように思えただけなのだ。

気の早いことだと自嘲しつつ、彼は今、部下を待っている。花など自分の柄ではないと思ったが、よく察する部下が率先して買いに行ったのだ。普段なら怒鳴りつけるような部下の細かい気の回しようも、不思議なことに不快ではない。

身体の奥底から湧いてくる甘い感情を彼は持て余していた。だからおそらく、普段どおりの勘が働かなかったのかもしれない。ふいに胸元に感じた衝撃を少し遅れて見下ろすと、スーツの隙間からのぞく白いシャツに赤い何かが広がり始めた。

血だ。ぼんやりと認識したのと同時、もう二度の重い音を身体に感じる。

地面に崩れ落ちる彼の耳には、部下の叫び声と銃声がやけに遠く響いていた。ただ「ぬいぐるみを汚しては駄目だ」とだけ思い、彼は震える手で包みを血と泥にまみれない場所に投げてから、意識を暗く深い漆黒へと沈めていった。

*******

ぽつぽつと木が並ぶ緑の墓地の一角に、ナマエは一人佇んでいた。参列者は既にいない。たった一人を除いて。

「おい」

何の反応も見せないナマエに近づくと、キッドは声をかける。

「おい、聞こえてんだろ」
「……」
「ナマエ」

彼が肩に手を置くと、ナマエは微かに身を震わせた。細い、頼りない、女の肩だと思うと触れていられず、キッドは手を離して再度呼びかけたのだった。

「冷えるぞ」
「……いいんです」
「いいわけあるか。腹の子に悪いだろう」

彼を振り返った女は、涙など見せてはいなかった。なのに、こんな哀しい表情は終ぞ見たことがないと思えたのは何故だろう。あらん限りの優しさでもって抱き寄せた女は、やはり泣くことはない。2人の影はしばらく重なったまま、宵の気配を見せる太陽に伸ばされていった。


Crimson Red 3(Law+Kid)



slow pain/小鳩さんへ捧ぐ。

間延びしつつも完結(?)。特殊設定ローさんでしたが楽しく書けました。でもこのローさんを好きだと言われると私は激しく心配( ´ ω ` )

なお、ローさん夢と見せかけたキッド君夢なのは単なるうちサイトの仕 様 で す。

いわゆる不幸な結末に腹立たしく思った貴方。対になる幸福Ver.「Indigo Blue」を小鳩さんが書いて下さいました。そちらをどうぞご覧下さい。





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