8月10日は、ハートの日




生憎と今この船は潜航中で。こういう時に真っ先に浮上を訴えてくるのは暑さに耐えきれないベポか、退屈に耐えきれないメイのどちらかだと、相場は決まっていた。


そのうちどちらかが部屋に飛び込んで来るだろうと予想しつつ、珍しい症例がいくつも載った新しい医学書を読み耽っていたわけだが。


――おかしい。こんなにも静かに読書に集中出来たのはいつぶりだ?


一通り読み終えた分厚い医学書をぱたりと閉じ、天井を仰いでみる。

いつもはギャーギャーうるさいあのチビが、数日前から何やらコソコソやっているのは知っていたが――、



「……。コーヒーでも、飲みに行くか」



まぁ本も読み終わったし暇になったからな、などとくだらない理由を自分自身につけながら向かう先はもちろん、食堂。


船が潜水している時は大抵、この船内で最も広い空間である食堂に全員が集まってくるのだ。まぁ実際野郎ばっかり密集してたら、余計に暑苦しいと思うんだがな。



「あっ、船長」



入り口付近でポーカーをしていた何人かが、こちらに気付いて声を上げる。軽く手を挙げて、ぐるりと室内を見渡すが――ここに居るだろうと睨んでいた人物の姿は、無い。


ここじゃなかったか、と踵を返そうとした瞬間。ふわりと鼻先を漂う甘い匂いに気付いて。



「なんだ?この甘ったりィ匂いは…」



その正体を探ろうと、徐々に香りが強くなる方――すなわち厨房の奥へ足を踏み込もうとすれば。



「わぁっ、船長!今はマズいっす!ちょ、ちょっとだけ待っ…」

「俺に命令するな」



何故だか必死になって腰を掴んでくるシャチ。男にじゃれつかれる趣味はねェと睨みを利かせ、引き止めようと力を込める腕を振り払った。


そして厨房へ入った途端、向う脛に走る鈍い衝撃。



「あっ、ロー!!」

「…痛ェぞ、メイ。空っぽのくせにお前の頭は石頭だな」

「むうっ、イシじゃないもんーー!」

「ああ、悪い。カボチャだったか?クク…」

「ちーがーうーのお〜!!」



勢いよく厨房の奥から飛び出してきたメイの手には、黄色いリボンでラッピングされた小さな袋。ハムスターのように頬を膨らませて怒りだしたメイを見かねて、マリアがひょっこり顔を覗かせる。



「もうローも意地悪言わないで。ほらメイ、渡す物があったんじゃないの?」

「…っあ、そうだ!ロー!これっ!!」



さっきまでの膨れっ面は何処へやら。マリアの言葉にキラキラと目を輝かせたメイが、抱っこをせがむように飛びついてきた。



「何だこりゃ、菓子か?」



手を伸ばして渡してくる小さな袋を紐解けば、現れたのは―…甘い甘い香りの温かいクッキー。なるほど、匂いの正体はコイツだったか。しかし何故、こんなものを?


ハート型に象られた少し不恰好なクッキーを指で摘み上げ、まじまじと眺めていれば。



「あのね!きょうはね、ハートのひだよってみんなにね、メイおしえてもらったの!」

「……は?」

「ローのおふね、ハートのかいぞくだんっていうんでしょ?だからねッ、これあげるの!!」

「フッ、それでハート型の…クッキーってわけか」

「ママといっしょにメイがつくったんだよー!!」



よく見ればメイの頬や鼻先には小麦粉が付いていて。厨房の作業台の上は惨状と言っても差し支えないほどに、菓子作りの道具や材料が散らばっていた。

きっとこのあと後片付けを手伝うことになる、コックの苦労を思うと笑えてくるが……



「へェ…やるじゃねェか」



今はまず、この目の前のチビ助の頭でも撫でてやるか。






将来は、専属のパティシエですか?






8月10日に、ありたっけの愛と感謝を込めて。


2011.8.10





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