その日寝つきが悪かったのか、少しの物音だけですぐに目が覚めた。
目を開けると部屋はまだ薄暗く、差し詰め4時頃くらいだろうか。
半分夢見の状態のままちらりと横を見ると、実弥さんの背中。ぐっすり寝ているようだ。
規則正しく上下する肩をぼんやり見つめながら、欠伸をひとつする。
どうやら今日はあまり天気が良くないらしい。
じめじめと湿気た空気が漂う部屋は生温い温度のせいでさらに気持ちがわるい。
あまり寝れなかったのはこの湿度のせいか。
それに汗で寝間着が背中にくっついてしまっていて不快感極まりない。
静かにぱたぱたと胸元に風を送るが生温かい風のせいであまり意味がない。
身体中の汗と喉の渇きのせいで寝ぼけていた頭が少しずつ働き出す。
眠たい、けれど今はこの汗ばんだ身体が気になってしょうがない。
ゆっくりと体を起こして簡単に布団を畳む。
実弥さんは、大丈夫。起きてない。
ちらりと確認しながらそろりと部屋を出る。
空を見上げると案の分厚い雲で覆われていて、これじゃあ雨が降るのも時間の問題だなぁ、とため息を吐いた。
顔を洗い水を胃に流し込む。
それだけで身体の芯がかなり冷えて、先ほどまでの気持ちわるさが引いていく。
「なんか、お腹空いてきたなぁ。」
と、次にわたしを襲ったのは空腹だった。
まだ朝ご飯まで時間があるのにも関わらず、ぐぅと腹からの音が煩い。
一度食べ物のことを頭に浮かべてしまったばかりに、余計お腹が空いてきた。便乗するかのように一際大きな音が腹から鳴った。
「よしこうなったら………。」
わたしにとっての最大の敵は、この空腹かもしれない。
それはたまに普段では考えられないようなことをさせるのだ。
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「おっそば〜そばそば〜〜。」
そして鼠色の空の下、わたしは軽快な足取りで外を歩いていた。
頬を掠める生温い風が先ほどとは打って変わって心地よく感じる。それはまぁ気持ちの問題ではあるか。
一度着替えるために実弥さんのところへ戻ったときは、わたしに忍者の心得があればと死ぬほど後悔した。あれほど心臓に悪いものはない、うん。
とはいえ無事に着替えを調達することができて本当によかった。
わたしは今この空腹を満たすためお蕎麦屋さんに向かっている。
少しは離れにあるけど任務帰りとか空いていて本当助かるんだよなぁ、あのお店。
と、向かう道の先にちらりと見覚えのある隊服が目に入る。
かなり先にではあるが、あの大きな背中に灰緑色の羽織り、うんあれは絶対そう。
小走りで近づくと間近で見る大きさに改めて驚く。とんとんと肩を叩き顔を覗き込んだ。
「お久しぶりです悲鳴嶼さん。」
「君は………。」
「奇遇ですね。任務帰りとかですか?」
驚いた様子もない悲鳴嶼さんは、こちらを一瞥し少し歩みを止めたけど、あぁと一言返すとそのまま歩き出す。
わたしはその横を同じ歩幅で付いていく、がこの体格差ではどうも早歩きになってしまう。
「あの悲鳴嶼さん悲鳴嶼さん。」
「何故私に付いてくる……?」
「それがちょっといいこと思いついちゃって。」
よかったら一緒に食べましょう、お蕎麦。
次は完全に歩みが止まる悲鳴嶼さんに倣うようにわたしも足を止める。
振り向いたと思えば、なにか考えるかのように黙り込んでしまった。
近いですから、ね?と念を押すと渋々そうではあったが、あぁと一言了承の言葉。
やった。食事はひとりよりふたり。それに越したことはない。
「お、美味しすぎる…!来てよかった…。やっぱり思い立ったが吉日って言いますもんねぇ。」
「………。」
「あ、月見そば一つとおにぎりを二つ下さい。」
ずるずるとざる蕎麦を喉に流し込む。
冷たいその喉越しは汗ばんだ体にはとても嬉しい。
来てよかった。部屋に一度戻ったときは本当に心臓が止まってしまうと思ったけど。
今この瞬間、おいしいものが食べられているのだからもしばれても後悔はしない。
止まることのないお箸でするすると胃袋に入る蕎麦は、5分ほどしか経っていないはずなのにもう空になりかけていた。
と、ちょうどいいときに次に頼んだ月見そばと海苔に巻かれたおにぎりがくる。
お待たせ、だなんて、蕎麦屋のおじちゃん最高のタイミングだよ。
ふつふつと幸せを感じながら月見そばを口に運ぶ。
「やっぱり温かい蕎麦も欠かせませんよねぇ。」
「………。」
「…あの悲鳴嶼さん?お箸止まってますよ?」
「………。」
「え、な、なにか顔に付いてます?」
「……………、いくらなんでもそれは食べ過ぎではないか……?」
「あーー普通ですよ。わたし人より胃袋が大きいみたいで…、実弥さんの隠しているおはぎ盗み食べちゃうくらい。いつも怒られるんですよ。あ、でもいっぱい食べてたら悲鳴嶼さんみたいに大きくなれますかね?」
最近身長が伸びなくなってきて、と至って真剣な顔で問いかける。
あ、
問いかけには応えることなく、悲鳴嶼さんはほんの少し口角を上げ、大きくなるわけないだろう、と。
「………笑った。」
「え……?」
「え、あ、いや、ただ笑っているところを初めて見たので、少し驚いてしまって、」
「……驚くようなことではないだろう。」
「でもわたしにはすごく貴重で、嬉しいです。」
だって悲鳴嶼さん、わたしのことよく思っていないですよね、と言葉には出さない思いを頭の中で消化させる。
それは、初めて会った瞬間から分かった。
明らかにわたしにぶつけられた懐疑的な視線に身が硬直したのを覚えている。
警戒するような、拭いきれない不信感を今までいくら壊そうとしたところでそれはもう鉄壁だった。
でも、実弥さんの口から聞く悲鳴嶼さんは堅気で寛大で強靭で、わたしもいつか話せたら、と思っていた。
だから、笑ってくれたことが単純に嬉しくて堪らなかった。
「………可笑しなことを言う子だ。」
「そうですか?あ、でも実弥さんからもよく言われます。意味わかんねぇこと吐かすなって。」
「不死川とはうまくいっているのか……?」
「まぁ稽古で吐く寸前まで叩き上げられていますけど、……それ以上に良くしてもらっています。本当に。」
「そうか……。」
と、あまりに悲鳴嶼さんが眉を下げて微笑んでくれるものだから、嬉しくなって泣きたくなって、隠すように冷えて伸びてしまった蕎麦をズルズルと啜った。
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