この気怠さといい吐き気といい、身体の調子が最近良くない。耐えられないほどの頭痛がしたときは本気で頭が割れるかと思ったし、実際半日ほど動けなかった。
蟲柱の胡蝶さんは鬼食いを控えろ、と何度も言うけれど大人しく首を縦に振るほど俺の覚悟は甘くない。
今更、やめられるわけない。
ある日。診てもらうために朝から蝶屋敷へと足を運んだが、今日も同じように口酸っぱく言われた。
俺はそれにはいと返事をするが、胡蝶さんの顔は晴れない。そりゃそうだ。毎回同じことを言われ、同じように返事をしても尚この状態のままなのだから。
きっとこの人は俺がやめる気がないことに気付いている。
それでも、自分の体を大事にしてください、と言葉を掛けてくれる胡蝶さんは優しい人なんだろう。でもその言葉を真正面に受け止めることができない。いつも目を逸らして、下を向いて、聞き流して。
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蝶屋敷を出ると外は少し曇っていた。
よかった。曇天の日は少し身体が軽い気がする。
そのまま帰路につこうとすると、前から見覚えのある姿が近づいてきているのが見えた。あ、あのときの。
「あ、」
覚えていなかったらそのまま足を進めようと思ったが、あっちも気付いたらしく目を開いて驚いたような顔をしていた。
あのときは自分のことにいっぱいいっぱいで全てのことに無性に腹が立って、あんな態度をとってしまったけれど、今思えば心配して声をかけてくれた相手に酷いことをした。
実際罪悪感から合わせる顔なんてなかったけど、そんなのお構いなしにあちらから軽快に駆けてくる様子が目に入る。
目の前に来て並んでみると思いの外見下ろす形になった。こんなに、小さかったか。
「お久しぶりです、玄弥くん。体調のほうはもう大丈夫なんですか?」
「………あ、ああ。この間はどうも。」
「いえいえ、道端であんなに体調悪そうだったら見過ごせないですよ。」
元気になったみたいでよかったです、とにこりと笑う姿は本当に俺のことを心配してくれていたみたいだった。ありがとうと素直に言えたらいいのにうまく言葉にならない。
それに落ち着いて見ると意外に整った顔をしているところとか俺の名前を覚えてくれているところとか、変に心臓がざわつく。くそ。
「……えっとアンタ名前、なんだったっけ。」
「…………あーーーー、内緒です。」
「…はぁ?」
「ちょっと色々あってですね…、わたしと会ったことは誰にも言わないでください。」
罰が悪そうに眉を下げるのはなにかを思っての顔なんだろうか。だとしたらそのなにかってなんだ。誰かに気づかれたら不味いことでもあんのか。
「なんかあんのか?」
「へ、」
「………命狙われてる、とか。」
「ぶはっ、」
だとしたら力になりたい、と純粋に思った。ひとつ借りがあるわけだし。
だけど俺の気持ちとは裏腹に目の前で吹き出したと思えば、おかしそうに腹を抱えて笑い出した。
その様子に最初は変になったのかと戸惑ったが、ずっとヒャッヒャッ言っている姿を見てだんだん苛ついてきた。こいつ、少し顔がいいからって調子乗んなよ。
「…おい、いつまで笑ってんだ。」
「あ、ごめんなさい。おかしくって。」
あー笑った笑った、なんて言いながら目尻に浮かんだ涙を拭っている。
逆に俺には苛々が募っただけだった。
それが多分顔に出ていたんだろう。ふと俺の顔を確認するなり、さっきまでの馬鹿にしたような笑みじゃなくふんわりとした笑みを向けられた。それは、なにか愛おしそうなものを見るような、優しい、そんな微笑み。心臓がくっと浮つく。
「……似てるなぁ。」
ぼそりと呟くように発したその言葉ははっきりと聞こえた。だけど意味はわからない。
ただ俺を誰かに重ねているのか、自分自身に向けられたものではないことは確かだ。
果たして俺を通して誰に向けた顔なのか。そんなの知る筈もない。
「安心してください。名乗りたくないのはただのわたしの勝手です、ていうかこの前言ったのになんで覚えてないんですか。」
さっきまでの様子とは打って変わって、あっけらかんとした表情で話す。本当に同一人物かと思うくらいに。
「あ、いやアンタが俺の名前覚えてたほうが驚いたけど…。」
「そうですか?まぁ忘れようがないってのもありますけど。」
「そんな覚えやすいか?」
「え、あ、そうそう覚えやすいんですよ。しなずがわなんて。まず初見で読めませんし。」
「………俺教えたか?」
どんな風に書くか、と言葉を続けると、ピタッと分かりやすく動きが止まった。あれ、とは思って言ってみたはいいけど特に不審に思わなかったというのに。胡蝶さんと面識あるみたいだから俺のことを聞いていてもおかしくはないし。
だけどこの様子。
目の前で目を泳がせて明らかに動揺している。
いきなりどうしたというのか。
「………え、えーーーーーと。その、わたし決めたんですよ。本人の口から聞くって。話してくれるときまで待つって。だから、玄弥くんから聞くのは違うっていうか、」
「なんの話してんだ?」
「と、とりあえずまたいつか会いましょう!お体に気をつけてくださいね。あとわたしの名前は忘れてくださいね。あ、忘れてるか。」
じゃあまた!と言いながら、まるで逃げるように背を向けて走っていった。止めるわけにもいかずただその背中を茫然と見ていた。一体なんだったんだろう。なにをあんなに焦っていたんだろう。というか言っていることが全く理解できなかった。
「あれ。まだ帰られていなかったんですか?どうかなさったんですか?」
ぼうと立っていると突然後ろから声を掛けられる。振り向くと見覚えのある隊士が不思議そうにこちらを見ていた。たしかいつも胡蝶さんの近くにいる、なんとかアオイとかだったか。
「…… 別に。」
踵を返して帰路に着こう、としたときに、ふとさっきのことが気になった。
あいつも蝶屋敷によく足を運んでるみたいだった、ってことは名前くらい知ってるんじゃないかって。
あんなに忘れてくださいと言われれば逆に気になってしまう、人の性とも言えるだろう。
「なぁ、ここに傷があって髪をひとつ結びにした隊士知ってるか?」
「?名前さんのことですか?」
そうだ。苗字名前だ。そう言ってた。
まぁ思い出したからどうかなる話でもないんだが。
「あの名前さんがどうかしたんですか?」
「いや、どうってことはないけど…。ここにはよく来るのか?」
「まぁ来ますけど…、気まぐれですよ。あの人継子なのにすぐサボってお茶してますから。」
「……………継子?」
「はい。風柱の不死川実弥様の。」
まさか、そんなにさらりとその名前を聞くことになるとは思わなかった。
ああ、でもだから、俺の苗字知ってたんだな。なんて妙な冷静な自分がいて。
それとは反対に頭は真っ白で、心臓は抉れるように熱い。
このどうしようもない感情をどう片付けたらいいんだろうか。
その術を、俺は知らなかった。
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