少し大きな、それでいて骨が浮き出る程に細い手が恐る恐る私の額を撫でていた。撫でる事を躊躇しているとも感じられるような、そんな手付きである。まるで腫れ物を扱うみたいに優しく優しく、髪を撫でる。これは夢であると錯覚した。私はこんなに優しい手を知らない。心地のよい微睡みの中に居るだけであってこれは決して現実ではないと私は断言できた。

昨晩の事はよく覚えている。仕事を終えた私はいつものように規定のルートで帰路を辿り、狭いアパートの一室でこれまたいつものようにテレビを見ていた。仕事で疲れていた私はたまたまやっていたお笑い番組を見ながら眠りの淵に追いやられたのだ。ソファーの上で、きっと化粧すら落とさずに寝てしまったのだと思う。

早く起きて仕事に行かなければならない。段々と突角を現す目覚めに応じるように、私は重い瞼を開く。意識がはっきりとした瞬間、夢で見ただけである筈の優しい指先が私の髪を絡め取っている事に気付いて私は青ざめた。これは一体、誰の手だ。

視線を少し右にずらすと、まず初めに淡い緑色の髪を持つ青年が視界に入った。薄い笑みを浮かべ、恍惚の表情で私を見つめている。深く被った帽子の下に死人のような目が映し出されていた。何拍か置いて、青年が口を開く。

「おはよう。ああ、よかった……目が覚めたんだね」
「――あ、ええ……おはようございます。あの、此処は一体、」

見知らぬ物で覆われたこの一室が何処であるのかを問おうとして、口をつむぐ。寝惚けていたのか、或いはまだ夢を見ている感覚だったのか――私は彼の存在が肯定できる物ではない事に気付いた。私は彼を知っている。知っているからこそこの場に彼がいる事に、私と彼が共存している事に疑問を抱いた。二次元、ゲーム、キャラクター……。言葉は幾らでも思いつくがそれを口にする事は許されない。

「もしかして寝惚けてる?此処は僕と名前の家じゃないか」
「そう、なの。――あ、ううん、そうだったね。私寝惚けてるみたい。変な事言ってごめんなさい」

彼と私の家?私は彼と一緒に住んでいるのだろうか。そもそも、ゲームのキャラクターと一緒に住むなんていう事が可能なんだろうか?意識ははっきりとしている筈なのに、未だに夢の延長上にいる気分である。目が覚めたら目の前に見知らぬ青年がいたのだから無理もないが。――いや、知っているには知っているのだが、この世には存在しない筈の青年、と言うべきか。どちらにせよ今自分の身に信じがたい事が起きているのは事実だ。

「なんだろう、夢でも見ている気分だよ。普段から無表情でろくに言葉を発しない君が今こんなにも動揺して、困惑してるなんて。君の声を聞ける日がくるだなんて思わなかったな」

夢でも見ている気分なのは私の方だ。気掛かりな事はそれこそ腐る程あるが、問題は私がこの出来事をどう対処するかという事だ。なるべく穏便に済ませたいが、これが夢であるなら早く覚めて欲しいと切に願った。とにかく、穏便に済ませる為には彼の言う私を知る必要がある。私は誰になってしまったのかを知る必要が。

「あの、ごめんなさい。私、今、記憶がこんがらがってて……。私とあなたの間に何があったのか最初から、なるべく簡潔に説明してくれないかな」

彼の瞳が、揺れる。彼という存在が如何に不安定なものかを再度思い知らされるような――そんな表情のまま唇を僅かに開いた彼を見て、私は申し訳ない思いでいっぱいになった。もしかしたら私は彼の大事な人を奪ってしまったのかもしれない。

「何も憶えてないなんて、そんなのは嘘だ。虚言でしかない。君は罪から逃れる為にそんなしょうもない嘘をついているんだろう?」
「――罪? ……ごめんなさい、本当にわからないの。」
「僕と君が出会った日の事も?一緒に観覧車に乗った事も、君が真実を追い続けた事も、僕と君が真実と理想をかけて戦った日の事も、本当に憶えてないの?君がどうして此処に居るのかも全部忘れてしまったのかい?」

ゲームをクリアした私にはわかる。彼の言う私はきっと、このゲームの主人公なのだろう。でもNの城での戦闘後、彼は伝説のポケモンと共に何処かへ行ってしまったきり遠い地方に姿を眩ました筈ではなかったか?

「えっと、少しだけ思い出したよ。Nの城であなたとバトルしたところまではわかるんだけど、何故私とあなたがこうして一緒に暮らしてるの?」

思い出したと聴いて一瞬だけほっとしたような表情を浮かべたNだったが、その表情はすぐに剥がれ落ちてしまった。一瞬にして憤怒を顕にしたNは、私の髪を掴み、そして怒鳴った。それは最早私が微睡みの中にいた時のような優しい手ではない。引っ張られる事によって髪の毛が抜け落ちていくのがわかった。痛いし恐いと思う反面、こんな状況になっているにも関わらず冷静でいられる自分に少し驚愕する。まだこれを夢だとでも思っているのか、夢だと思いたいのか――。

「罪だけを忘れるなんて、そんな事絶対にさせない!!君はたくさんのポケモンを傷付けた。ポケモンを量産して良い個体のポケモン以外は切り捨てるように野に放つなんて――外道だ。そんな話聞いた事もなかった。産まれたばかりのポケモンが親もなしに生きていける訳がないのに、君はそれを捨てたんだ。それこそ何百匹という単位でね。信じたくはなかった。ポケモンにスキだと言われていた君が虐待紛いの事をするようになっただなんて……。だから僕は君を手元に置いておこうとした。君は何も言わずに僕に着いてきて逃げる事もせずに此処に居てくれたから、罪を償う気でいるとばかり思ってた。――裏切られた気分だよ」

Nの手が私の髪を解放する。汚い物を見るかのような目で手に纏わり付く私の抜け毛を見てから、それをフローリングへと落とした。Nの言っている事はすぐに理解出来た。思い浮かんだ言葉は「ポケモンの厳選」だった。ゲームをクリアしてからの私は良個体のポケモンが産まれるまで厳選を繰り返し、理想個体ではないポケモンを塵のように野に放っていたのだ。それは勿論ゲームだからこそ成せた事だが、ポケモンが"生き物"として反映されているこの世界での私の行動は――。

「思い出してくれた?」
「ええ。」
「……そう、ならよかった」

私が逃がしたポケモンは生きているのかを問いたくなったが、諦めた。ゲーム上では逃がしたポケモンの生死どころか居場所すらわからないし、Nにそんな事を聞けばまた軽蔑の目で見られてしまう。私が記憶がないと言った事によってポケモンを大事に想う彼の気持ちを踏みにじってしまったのだ。何より、私はたくさんのポケモンを――。

「僕は君のお陰で変われたんだとそう思ってる。だから今度は僕が君を変えてあげたい。君に勝手な理想を抱いていた自分も悪いのかもしれないけど、君にそんな事して欲しくなかったという僕の気持ちも汲んで欲しい」

何も、言えない。ただ一言、ごめんなさいとだけ言っておいた。まだ少し頭が追い付かないけれど、此れが夢であると思い込もうとするのはもう辞める事にする。きっと、私は此処で罪を償わなければならないのだ。





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