※壊れた于禁殿とホラー注意


小庭にて、梨と夜を過ごし始めて幾許経ったか覚えていない。

「夜を過ごす」と言えど、眠った彼女を一方的に抱え、小庭まで移動するだけ。
己の膝を枕にし、眠り込む梨と月を眺めることが日課になった。
彼女が目を覚ます前に部屋に引き上げれば咎めるものもない。規律にも反しなどしない、正当な逢瀬だ。


だが今日は、いつもと違うらしかった。


己の膝で、眠る彼女が囁いた。
それは譫言のように、掠れている。


…いや。実際譫言、もとい寝言なのだろう。
それほどまでに小さく、意味のない呟きを聞き取ってしまう程度には、私は梨に対し特殊な注意を払っているということに他ならない。
彼女は特別なのだ。己を律しきれていないことに自嘲する。

夢の中の言葉を現し世に持ってくるなど、何か悪い夢に違いない。
「どうしたのだ。」そう眠る彼女に問いかけようとした所で、背後の気配に口を噤んだ。


「お前か、…于禁。」
「夏侯惇殿…。」


こんな夜更けに何事か、恐らくそう言いかけたのだろう彼は、私の腕の中を一瞥すると眉根を寄せて溜息を吐いた。
口止めをしなくてはならないと声を発する私より先に、夏侯惇殿はそれを制する。
こういったことに慣れているのかと邪推こそすれど、この手の話題など興味もなかった。


「……いい加減、冬も近い。戻らねば感冒に罹るぞ。」
「私は構わぬのですが…確かに、梨には厳しいでしょうな。」
「ああ……そう、だな。」


膝の上に梨のぬくもりをまざまざと感じる。
確かに、冷え込みは日毎厳しくなったのだ。このままでは彼女が感冒に罹る。


「もう少し、此処に残っても。」
「……早く眠れ。」


明日は早いぞ。そう言って諦めたように背を向けた夏侯惇殿は、私の質問には答えなかった。
あまり大きな声を出しては梨を起こしかねない。あとほんの少しだけ月下に居よう、と囁いた。


−−−−−


夏侯惇は呼ばれていた。

「何に」「誰に」「何処から」など一つも知れず、丁度入眠するかどうかの際に耳に入った女の声に、すっかり眠気を攫われたのだ。

悪戯の類と放置するほど危機感のなっていない人間ではない彼は、何に根拠を得るでもなく部屋を出で、苛立ちに歩を進める。


あてもなく小庭に辿り着いた夏侯惇の視界には、予想の範疇にない人物が入っていた。
…于文則。規律に厳しいはずの男がこんな時間に何を?

そう問おうとして、己の呼びかけに応じ半身を捻った男の腕の中にあったものがちらりと覗く。その瞬間に、怒りも何もが飛んでいった。


──白く光る頭蓋だけの骸を膝に載せ、愛おしげに指を滑らせる于禁の姿。

彼の目の下には隈も出来、明らかな疲労…もしくは精神の乱れを示している。
だがこの男、昼間にこんな顔をしていただろうか……?

あまりにも穏やかで仄暗い于禁の表情を見てしまっては、その骸はどうした、とは聞けなかった。
否、この状況で漸く、己を呼んだ声の主を夏侯惇は悟る。


梨という女だったはずだ。しばらく前の大敗で命を落とした于禁の副官。
惜しい者を亡くしたと、己も彼の肩を叩いたことを思い出す。
……よもや、その日から。


途端に、もう一度声が響いた。
今度ははっきりと。言うならば、目の前から。
(お願い……)
于禁には、聞こえていないのだろうか。
(私の体、体を、埋めて)
こんなに悲痛な声を、無視しているのか。
(……于禁殿の、寝台の、した、に)


「ッ……早く眠れ。」


限界だった。それが真実なら尚更。
身を駆け上がるおぞましさに、今すぐに此処を立ち去る選択をする。


……その背には、悲しい声だけが届いた。

月の牢