魏軍の宴は、品と無礼講の均整が取れた良いものなのだと、今更ながらに思った。


横で半分意識を飛ばしてもなお盃を煽ることを止めない同輩の武官に呆れながら、美しい彫刻の施された鶏卵に目を移す。
…確かにこんなに優美なものは見たことがなかった。


「梨殿、貴公も飲まれよ…この張文遠が酌を……」
「これ以上飲まないと約するのなら、貴方が飲まぬ分を飲み干します。」


そう飲み過ぎを咎めながら見つめた隣の彼は、目も座りいよいよ眠ろうかというところ。
その手から高価そうな盃と酒瓶を落とさぬうちにと取り上げてしまえば、立ち上がったこちらを見上げ「うぅ…」とだけ赤子のように声を漏らした。


曹操様の宴には、いつも壁際に椅子が設けられている。
張遼殿のように「限界を迎えた人間」たちの恰好の避難場所としての席、そして酒を躱したい者たちが集まって談笑を交わす場所もまたそこであった。

だが、宴も闌を過ぎれば壁際すら賑うもの。
今までは静かに宴を楽しんでいた者も、押し寄せる泥酔者にどんどんと場所を奪われるのが常である。

そして例に漏れず、私の居なくなった席には張遼殿が倒れ込んでしまい、再び其処に座ることは叶わなくなっていた。


「さあ、どうしましょうか…。」
呟いてみても、周りは賑やかに酒を進めている。チラホラ床に倒れている者もいれど、昔馴染みを同じように放置するのも憚られた。


いっそ宴の中に飛び込もうか。いやそれは気乗りしない。
同じように壁を追われた下戸たちが、既に正体を無くした酒客たちに招かれるまま無用に屍となっていく。

ここは一端の武官としてやるしかないかと諦め、梨は張遼に肩を貸すと半ば引き摺りながら酒宴を抜けだした。


張遼殿の為にも、こんな姿を誰かに見られるわけにはいかない。
少し遠回りをして、できるだけ女官や給仕に出会わないようにしなければ。

そう思ったところで、昔はこんな気遣いをすることもなかったし、なにより酒宴の中にいた私もこうなっていただろうことを思い出した。
…呂布殿の軍では早く潰れてしまった方が身のためだった。酔ったふりをして早々に抜けだした酒宴に良い記憶など碌に無い。


昔のことを思い出しては渋い顔になってしまうのはしようがなかった。
暴虐を嫌って、散々に抵抗して、それでもあの鬼神に従ったのは偏にこの肩に掛かる男の為だなんて。
『惚れた弱味』なんて男らしい言葉を浮かべて溜め息が漏れた。


「張遼殿、後もうひと踏ん張りです。どうか完全に眠るのだけはご容赦を。」


梨がそう告げながら張遼の寝室の戸を潜る頃には、彼女の額はほんのりと汗ばんでいた。
付き合いのために幾らか口にしていた酒精が、予想を超えて体を廻り頭をぼやかす。
加えて隣で身動いだ張遼からも、強い酒の香りが立って鼻を刺した。

私も早く水を飲まねば、明日地獄を見るだろう。
漸く寝台の間際までたどり着き、砂袋を扱うように男の上半身を乗せた。
丈夫な彼は少し唸り、履き物を器用に脱いで足を仕舞い込む。
寝台の側まで椅子を引き、腰掛けた梨はくたびれた足を投げ出した。


「普通、こういうことは男がするものなのですよ?」


『梨様が、華を持ち帰られるのですか?!』
一人だけ、此処に来る途中すれ違ってしまった女官にされた顔と言ったら!
恐らく彼女からみれば、私が張遼殿を自室まで連れ帰るところに見えたのだろう。

美しい女性を自室に連れて行くのならまだしも、何故そんな勘違いを……この言葉も相まって、暫く立ち直れないことは必至。
椅子に腰掛けたまま、酔っぱらい特有の生返事が返るのを良いことに愚痴を溢した。


「全く…曹操殿の宴でさえ私は華を気取れぬのですか。」
「……己を華と、例えるとは……随分な自信だ…。」
「余計な事を言わないでくださいませ。」


華扱いされた事をからかおうと思ったのも束の間、こんな髭武人を華にして堪るものかと怒りが湧く。

ああ!ならば今度私の部屋にあるきらびやかな衣装を着せてしまおうか!
郭嘉殿に頂いた際どい衣装だ、たとえ彼の体に合わずビリビリに裂けたとて構わない。

姦計を巡らせる梨を余所に、張遼は再び訪れた眠気に目を細めながら、もぐもぐと口を動かしていた。


「……そなたが華に見えるのは…今も昔も、私だけで…良い………。」


かちり。固まった空気には気付かないまま。
張遼殿はそのまま寝息を立てて私を置いていってしまう。

いつもは貴公としか呼ばないくせに、だとか、さらりととんでもないことを告げるだなんて、だとか。
顔に熱が集まるのを酒の所為とは言い切れず、梨は両手で顔を覆った。


「前言を……撤回します……!」




──やはり貴方が華なんです!!


羊と狼、蝶に華
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