「釣れてます?」
「………今、梨の声で魚が逃げた。」
「負け惜しみ言わないで下さいよ。」

どうせ釣果はゼロでしょう?
なんて言いながら隣に腰掛けると、仕返しのつもりなのか釣り針が目の前に飛んできて焦った。あっぶないなこの人。
すんででそれを避けると、針はまた水面を揺らして水に沈む。
どうせ釣れないならと、私はお喋りの体制を取ってやった。

「太公望殿は、『おいてけ堀』って話知ってます?」
「知らぬはずがない。私は全t」
「はいはい。」

ちらりと視線で彼をみたら、ぶすっとした顔でこちらを凝視していた。
知らないと言えないのなら、知らぬ事を前提に話すだけ。坊ちゃんの扱いは慣れればとっても簡単。

ならばと、私は『おいてけ堀』の話を始めた。
−−とあるお堀というか沼のような場所は、とても魚がよく連れる絶好の場所だった。
ところがそこで釣りをした帰り、沼から離れようとすると何処からともなく「おいてけ」と声がするらしい。
それはそれは恐ろしい、地の底から聞こえるような恨みがましい声であるというのだ。
釣果を全て置いて行かねば祟られる。そんな昔話。

「……ま、この沼は釣果ゼロですし、その心配はなさそうですけどねー。」
「……。」

何かしらの反応を期待していたのだが、相変わらず無言のまま釣り糸を垂らされてはつまらない。
やっぱり仙人には怖い話が通じないかー。

その瞬間にぱしゃりと跳ねた魚は大物。
私に話し掛けようとしたのを中断して、彼は竿を引いた。

「急に釣れる……」

そう呟いたのを私は聞き逃さなかった。
この人、怖いのを我慢しているらしい。
『あぁ強がって可愛いなぁ』とは口が滑っても言ってはいけない。

「あれ?どうしました?釣れてますよ?」
「くく…アレは大きすぎよう。」
「余裕ですねぇ太公望殿……」

見つめた彼の指先が少し震えていたなんて、面白過ぎて笑いそうになってしまった。
魚がかかる度、彼は「大きい」「小さい」と文句を付けてキャッチ&リリースを繰り返す。もちろんカゴの中身は0だ。
是が非でも魚を手にしたくないらしい。

そんなやり取りを数十回やって、漸く太公望殿が釣り針を水から引き出した。…その先には勿論魚など無し。

「………さぁ梨、帰ろうか。」
「えっ、ホントに釣果ゼロですよ?!」
「構わぬ。私は魚を捕らえたいわけではなかったのでな。」

くくく、なんて喉で笑った彼は、怯えた様子など見せず私を見下ろしている。
おかしい、確かに彼は怖がっていたはずなのに。そう思った瞬間に、私の鼓膜が震えた。
おいてけ、おいてけ。繰り返す重低音の呪い。まさか、からかい半分だった話が現実に起きてしまうとは!

それは瓢箪からホース、寝耳にウォーター。
正直、私は怪談はそこそこでも心霊体験は勘弁して欲しいタイプだ。見事に体が固まる。
待ってよ、置いてく釣果なんて何もない!!そう思ったら、太公望殿が私の手を取って駆け出していた。

彼が走りながら何事か叫ぶが、私には意味を理解する能がない。
……まあ、太公望殿と一緒にいたら何事もなく済みそうだから…いっか。なんて軽く考えて、私は彼が握る手を握り返してひたすら走るのだった。

………
……


「貴様、先刻からこちらを見ていたようだが……
この釣果だけはやれぬ

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