聖典のおうたに喝采を




 シュナは突然起こった不思議な出来事に飛び上がった。床から体が三十センチは浮いたのではないかと思う。案の定、後を歩いていた生徒たちも驚いて悲鳴をあげていた。

「ウー……またぶつかっちゃった」
「わたし、あの感覚嫌いなのよね。ちゃんと避けなくちゃ」
「だって突然出てくるんだもの」
「あなた、ピーブズのイタズラは上手くかわせるのにね」

 唯一隣を歩いていたジェシカだけは、上品な所作で右側に移動して避けることに成功したようだ。正体はホグワーツに住まうゴーストだった。突然壁から現れては生徒たちの体を通っていくので、毎回冷水を浴びせられたような心地になる。あまり気分が良くないのでシュナはこれが嫌だった。真珠のように白く、透き通った「ほとんど首無しニック」と太った修道士がなんでもないようにスルスルと向こうの壁を通り抜けていく。その後ろ姿をシュナを含めた数人の生徒たちが恨めしげに見送った。狭いガタガタの階段やいつも違うところに繋がる階段、何故か一段消えてしまう階段など……他にも、丁寧にお願いしないと開かない扉、硬い壁が扉のふりをしている扉があった。シュナが知らないだけで、もっとへんてこな場所があるのだろう。肖像画たちもしょっちゅう他の肖像画を訪問しあっていたし、どうして城中の物という物はじっとしていられないのかとシュナは気が滅入った。

 最初の頃に比べてもう随分慣れたと思っていたがそうでもない。やっと迷わずに教室を移動できるようになってから一ヶ月ほど経っただろうか。ホグワーツに入学してからは毎日が慌ただしかった。その上山ほど課題が出されるので月日が流れるのは驚く程に早く、気づけばもうハロウィーンが目前に迫っていた。クィディッチ競技場を飛び交う、針の先のように小さい人影を何度か見かけたが、近頃は日が落ちるのが早いせいでそれも分からない。クィディッチは魔法界で大人気のスポーツだ。シュナの父親もクィディッチの大ファンで、ケンメアー・ケストレルズというチームが特にお気に入りだった。父親の影響でシュナは七歳のときに初めておもちゃの箒を与えられたが、怖がって泣き喚いたので父は酷く落胆したらしい。十歳になって漸く箒を扱えるようになったことに大喜びしていた。残念だが、シュナは飛行術の授業だけで十分だと思った。間違ってもあの強烈なブラッジャーをお見舞されたくはない。

「そういえば一ヶ月後にはクィディッチ・シーズンじゃなかった?」
「今年はグリフィンドールが期待されてるみたいだわ。怪我人が出なければいいけど」
「あの人たちのプレー、たまに怖くて見てられないよ」

 以前見かけた練習風景を思い出しながら身震いする。ジェシカも乱暴なプレーや危ない行為は良くないと頭を振っていた。二人でふくろう小屋の階段を登りながら、シュナはさっき書き終えたばかりの両親宛ての手紙を風に飛ばされないように握りしめる。ジェシカも一緒にホグワーツでの生活をこと細かく記した手紙をローラット家へ送るらしい。丁寧な口調や洗練された所作、斜めに綴られた細い文字など、ジェシカの育ちの良さは日常生活の所々に滲み出ていた。そんな彼女と友達になったシュナは、何とか元気にやっているといった旨の内容を綴っていた。シュナはペットにふくろうではなく猫を選んだので、家からの手紙がなければこうしてふくろう小屋を利用していた。一番手前で羽を休めていたシロフクロウにお願いをすると、ふくろう冥利に尽きるといった表情で飛び立っていった。ジェシカもペットのふくろうを飛ばすと、二羽のシルエットが暗闇と判別できなくなるまで見送った。毎晩狩りに出かけてはネズミの死体を持ち帰ってくるペットの猫(カエルチョコのカードにあった魔女のキルケから名付けた)とどっちが利口だろうか。シュナはちょっと苦笑いしてしまう。元来た道を引き返しながら、夕食に遅れないよう二人は自然と早足になった。

「明日は水曜日だからね。自力で起きるのよ。シュナったら、寝起きが悪すぎるんだから」
「天文学ってナンセンスじゃない? 毎週あの授業が本当に憂鬱……」
「ちゃんと意味はあるわ。先生が仰ったことを聞いておかないと」
「分かった。ちゃんとする、できる範囲でね」

 あんまり期待しないで、といったふうにヒラヒラ手を振ってみせる。ジェシカは呆れたようにわざとらしいため息をついた。シュナには毎週水曜日の真夜中に授業をする意味が全くわからなかった。ひたすら望遠鏡で夜空を観察するなんて退屈で、うっかりしていると船を漕ぐこともある。まだ複雑な呪文を練習させられたほうが眠気覚ましになるのに、と思っていた。ジェシカは規則正しい生活を送っているので前日の夜に大急ぎでレポートに取り掛かることも、寝坊して授業に遅れそうになることもなかった。いつも助けてもらっているので彼女にはとても感謝している。

 まるで生きているかのように動き回る厄介な階段には苦労させられたが、最近は容量を得てきた。階段の気が変わらないうちに渡ってしまうのがコツなのだ。後は騙し階段さえ飛び超えればなんの問題もない。二人の先を歩いていた何人かの生徒の群れが階段でゴタゴタしているのを見つけて立ち止まった。一体何をしているのだろう?

「誰かが騙し階段に足を突っ込んだんだわ」
「おまぬけさんだね」

 二人はあっけらかんとして数メートル先を見上げた。確かに誰かのくすくす笑いや嘲るような声が賑やかさに混じって飛び交っている。ジェシカは一刻も早く夕食にしたいらしく、イライラした様子でつま先立ちになって渦中にある人物を見つけようとしていた。

「これから夕食で大渋滞するって言うのに……」
「もうかなり混雑してるみたい」

 人混みは依然として流れ出す気配がない。このままじゃ埒が明かないわ、といよいよジェシカが不機嫌になったのでシュナは仕方なく人混みをかき分けて前へ進むことにした。

「待ってて。ちょっと見てくる」

 足止めの原因である集団に近づくにつれて、シュナは渦中の人物が一年生であることに気がついた。上級生ならこの階段に慣れているに違いない。中心に行けば行くほど周りには見たことのある顔があったり、なかったりした。新入生らは、後ろで上級生がイライラを募らせていることも知らずに階段で笑い転げていた。手前にいた男の子の後ろから覗き込むと、シュナとほとんど同じくらいの背丈の男の子がメソメソ泣いていた。何となく哀れっぽい。ビー玉のように薄い色の瞳が取り囲む群衆を怯えたように見回した後、自分を捉えたのがわかった。

「後ろでつっかえてるよ、夕食に遅れちゃう」

 騙し階段に片足を突っ込んでいる男の子を引っ張り上げて立たせてやる。シュナの水を差すような行動に囃し立てる声や避難の声が湧いた。興ざめだとみんなが散り散りになっていくと、漸く膠着していた人の流れが動き始めた。頬を紅潮させ、その場から脱兎のごとく駆け出した男の子は一度も振り返らなかった。やっとシュナがいる場所まで来たジェシカは「どうだった?」と不思議そうに首を傾げる。「階段にハマった子がお笑い種になってただけだったよ」肩を竦めて答える。大広間はみんなのおしゃべりで賑わっていた。次々自分の寮テーブルに向かっていく生徒たちに習って二人も席に着いた。その途中、グリフィンドールの何人かがシュナを冷やかしたが全く気に留めなかった。彼らはスリザリンが嫌いなのだ。


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