いつわりのみちしるべ




 鈍器でガツンと頭を殴られたような衝撃が走った。後頭部めがけてブラッジャーを打ち込まれたのかとすら思った。ダメだ、クラクラする。信じられない。言葉の意味が呑み込めなくて頭を振る。倒れそうになったのを、人気のない廊下の壁が受け止めた。図書館のすぐ側の廊下はどこからともなく生ぬるい風を運んでくる。外の草花が揺れるのと一緒になってシュナの心も強く揺さぶられた。

「じゃあ……わたしは、誰なの?」

 ――シュナ・キャンベル。千九百六十年にイギリスの乳児院にいた文書が当時の記録に残っている。母親はマグルで、微力ながらも生まれたときから魔力を持っていたシュナを気味悪がって二歳になる前に捨てた。ネグレクトされたシュナが栄養失調で死にかけの状態だったところを保護したとき、必死に生き延びようと本能から自分の髪の毛を食べるシュナを見て乳児院のミセス・クォードはショックを受けたという。斑点が全身に浮きで肋が浮いた状態だったシュナはマグルの医者から体が弱く回復の見込みは低いと告げられた。日に日に弱っていくシュナの引き取り手はもう現れないだろうと思われていた。しかし、彼女が三歳になる頃、ぜひ引き取りたいと申し出てきたのが老夫婦だった。人の良さそうな笑顔を湛えた夫妻は子宝に恵まれなかった。養子として迎えた彼女にシュナ・キャンベルと名付けたのだ。夫妻はシュナにすこぶる丁寧な愛を与えた。体も弱く、感情の起伏も少ないシュナは二人に愛されていくうちにすくすく育った。(誕生日を祝うのにホグワーツからの入学許可証と日付が違っては困ると有名な占い師に頼んで視て貰ったのだが、なんとこれが十年後大当たりだったので夫妻はこっそり喜んだ。)いつ大きな病気になるか分からないシュナが生きた証を残すため、二人は娘の成長記録をアルバムにおさめることにした。ネグレクトされ言葉も話せず、感情を表すこともない、病気で死にかけていた捨て子が健やかに育つなんて奇跡に等しかった。シュナ・キャンベルは今までこうして育ってきたのである。

「クリスマスの夜にキャンベル家に押しかけたことが何人かに誤解されてた。それで、スリザリン嫌いの奴らがしらみ潰しにシュナのことを調べたら……思いがけずその話が持ち上がった」

 きっと秘密を知っていたシリウスは、他の人間にそのことを知られたときシュナを庇おうとしてくれたのだろう。スリザリン嫌いの人間がシュナをどう思おうが興味なんてない、そんなことはどうでもよかった。何より自分の人生が真っ赤な嘘だらけだったことが屈辱的だった。あの子たちが激昂した理由が今なら分かる。マグル生まれのシュナが純血の家柄に守られてぬくぬくと生きているなんて。そして、今まで何一つ疑わずに過ごしていたなんて。クリスマスにシリウスと会っていたという話が噂として広まったなら、有名な家柄のシリウスに取り入った嘘つき女だと言われても仕方ない。なんて愚かなんだろう。乾いた笑いすら漏れる。ずっと騙されていたんだ。こんなの全部嘘だらけの人生じゃないか。ママとパパはいつまで隠し続けるつもりだったんだろう? シュナが十七歳になるまで? どこかの誰かと結婚するまで? それとも、死ぬまで? もしかしたら教えないつもりだったかも。

「マグル生まれの穢れた血が純血のフリしてたなんて、どれだけ厚顔無恥なんだろうね」
「そんな言葉使うな。誰も思っちゃいないさ……君には事情があったろ」
「事情?」

 嘲るように聞き返す。事情ってなに。もう全てのことがどうでもよくなった。前髪をぐしゃぐしゃと掻き乱して長いため息をつく。シリウスがなにか熱心に話していたけれど、シュナの耳には一つも言葉が入ってこなかった。今朝取っ組み合いの喧嘩をしたことも、リーマスに手当してもらったことも、肋骨が痛かったことも遠い昔のことのように思える。その場から逃げ出すように誰もいない廊下を駆けた。このままどこか遠くに行けたらいいのに。自分の足がどこに向かっているかも分からないで歩き続ける。ベッドに潜って忘れたかったけれど、自分がもう二度とスリザリンの談話室に立ち入ってはいけない存在に思えて寮に帰る気は起こらなかった。ああもう消えてしまいたい。消えて、いなくなって、誰からも忘れ去られてしまいたい。この世界はこんなに息苦しい場所だったろうか。中庭のベンチで膝を抱える。消灯はまだ先だがこんな時間に寮を抜け出す生徒なんてカップル以外にいないだろう。数十メートル先に月が浮かんだ湖が見える。あそこに身を投げたら大イカの餌になるか、それとも触手に押し返されるかどちらだろうと、そんなことを思いついたり忘れたりしていた。

「今バカなこと考えてただろう」

 音も立てずに現れたリーマスに驚いたけれど、そのリアクションはほとんど無いに等しかった。いつの間にかここは、二人の逢い引きの場所になっていたらしい。無意識に足を運んでいたことに、今になって気付いた。そしてリーマスはシリウスに聞いてシュナを探しに来たに違いない。

「シリウスから聞いたでしょ。今あなたと話すと酷いことを言っちゃいそう。お願いだから消えてよ」

 存外低い声だった。もう放っておいて欲しい。どんな慰めの言葉だって腹立たしくなるだけだ。そもそもこんな気持ち、誰にも分かるわけない。シュナは自分が今世界で一番惨めなように思えた。明日にはホグワーツ中の生徒がシュナの秘密を知っているかもしれない。そうしたらもう居場所はどこにもない。学校を辞めると言ったらダンブルドアは認めてくれるだろうか。仮に広まらなかったとして、この先一生怯えながら嘘をついて生きていく羽目になる。恐ろしい爆弾を抱えていなければいけない。知らないほうが呑気に暮らせていたのではないだろうかと思い始めていた。

「君の気持ちが痛いくらいわかる。ここに居るよ」
「分からないよ!! 分かるわけない!」

 くたりと唇を下げたリーマスが曖昧に微笑んだのを見て、シュナの中で何かが盛大に弾けた。分かるわけない。それなのに知ったような口を聞くなんて。気付いたときには立ち上がって甲高い叫び声をあげていた。あたりの草花も驚いて静まり返る。シュナの激しい怒りに月も顔を隠してしまった。せっかくの美しい二人の夜が台無しだとアルテミスも嘆いていることだろう。シュナの心は落雷のように激しく燃え、それと同時に深い海の底のように閉ざされていった。

「今まで何一つ疑問に思わずのうのうと生きてきてバカみたい!」

 まるで意味なんてないのにシュナはまくし立てる。ほんの少し残っていた冷静さも一瞬にして消えてしまう。めらめらとした感情に呑まれていくのを感じた。思いの丈が溢れ出して、自分の力では止めることが出来ない。

「ママとパパはわたしを騙してた! 本当の娘でも何でもない捨て子だってことを隠して……ずっと、ずっと騙してた!!」

 怒りに歪んでいたシュナの顔が暗闇にぼうっと浮かび上がる。ふと彼女の怒号が止むと雲の隙間から様子を伺うようにして月が顔を覗かせた。薄らぼんやりとしたヴェールがシュナの顔を照らすと、今や彼女は涙で頬を濡らしていた。リーマスははっとして息を呑む。あの日空き教室で見たものが何だったのか分かった気がした。


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