パースペクティブの舟




 「何か」はシュナの見間違いではなく、やはりいた。ガサガサと衣擦れの音がした方を勢い良く振り返る。それはじっと息を潜めるようにこちらを見つめていた。爛々と光る二つの目玉が空中に浮いている。ドクン、一層大きく鳴った左胸が痙攣を起こした様に激しく動き出す。黄色い瞳はまたたきの内に消えてしまい、シュナは部屋の隅に押し込まれている割れた鏡に写った自分の姿に驚いて叫び声を上げた。おまけにそのまま尻もちをつく。動揺しすぎだ、あんな生き物がこの部屋にいるわけない。獣の独特の臭いと息遣いは流石にシュナでも分かる。この部屋の侵入者の動揺を誘う仕掛けがしてあるのかもしれなかった。分厚いホコリを巻き上げながら汚れを払って立ち上がると、今度は暗闇の中から人が現れたので再び情けない悲鳴をあげながら尻もちをつく羽目になった。

「からかって楽しかった?」
「ごめんよ。いきなり声を掛けたら驚かせると思ったんだ」
「そりゃあ驚きもするよ」

 リーマスと名乗った男の子に腕を引かれながら何とか両足に力を入れる。驚いて腰が抜けたのか踏ん張っていないと地面に逆戻りしてしまいそうだった。シュナのつっけんどんな言い方にリーマスは眉を下げた。

「この部屋は内側から開けられないんだ、どこなのかも分かってない。ホグワーツの気まぐれだと思うよ」
「そうだといいけど」

 彼の言う通り段々と暗闇にも目が慣れてきて、ぼんやりと部屋の中が浮かび上がった。時折ガラクタを弄るリーマスの影がチラついてシュナの目を引いた。ホグワーツで迷子になることはしょっちゅうあるけど、このまま一生見つからないことってあるんだろうか。生徒が行方不明のまま死亡した事件があったらどうしよう。いやいや、と頭を振っても最悪の事態ばかりが浮かんだ。

「いつからいるの? まさかずっとじゃないよね?」
「一時間……いや、もっと前かも。この部屋に時間があるか分からないけど」
「……何か見た?」
「何かって?」

 リーマスはあの目を見てないんだ。
 その後は暫くは無言のまま二人で暗闇の中を行ったり来たりする時間が続いた。他にも人がいるというのはこんなにも安心するものかなと思った。一人でいては気が気でない。また、あの大きな目玉を見てしまったらどうしようと考えながらふと足を止める。積まれた木箱の上に腰掛けるとリーマスが振り向いた。今度は彼が口を開く番だった。

「ねえ、シュナはどこの寮?」
「どこだと思う?」
「レイブンクローだと思うな。きみはとっても賢そうだし」
「残念ながら嫌われ者のスリザリンだよ。狡猾さだけは負けないかもね」

 リーマスはほんの一瞬バツの悪そうな顔をしたがシュナがニヤッとしたのを察したのだろう、つられて肩を揺らしたのが分かった。顔はまだ見えなかった。しかしその瞬間から二人は見えない引力に引かれたような気持ちになった。少なくともシュナはそうだった。捜索にも飽きてしまい脱出ゲームは一時中断となったので、二人は得意な科目の話や苦手な科目の話で盛り上がった。他にもカエルチョコのカードの枚数を競ってシュナはリーマスに十六枚差で負けた。こんなへんてこな出会ってない。奇妙な縁なのかもしれない。おもむろに薄暗い天井を見上げると、シュナは一つ気付いたことがあった。今座っている位置は恐らくシュナが最初に部屋を訪れたときと同じなのに違和感がある。隅に追いやられた古めかしいチェストや鏡の配置は変わっていない。だったら何が? 答えは簡単だった。出来るだけ平常心を装った声色でリーマスの名前を呼ぶ。

「扉が、消えてる」
「何だって?」
「見て。ここ、最初にいた位置だ……」

 どうかこの扉が消えたり現れたりする扉でありますようにと祈るしか無かった。打ちひしがれて立ち尽くしている隣にリーマスが並ぶ。違う、と発した声は鋭かった。床に膝をついて覗き込む体勢になったまま、何も無い壁を摩る音が響く。「縮んだんだ」ありえない、そう思ったがシュナもすぐに床にへばりついてまさぐった。猫とネズミが追いかけ合うアニメーションを思い出す。確かにそこには小動物が住んでいそうなミニチュアの扉が存在していた。辛うじて指先がドアノブであろう凹凸を撫でるのが分かる。とても摘めそうにない。収縮する可能性がある、ということに賭けるしかなかった。

「この部屋、アリスみたい。小さくなったり大きくなったりするところとか」

 悠長にしているシュナの呟きを何となく聞き流していた。彼女の予想は当たった。暫くするとぐんぐん扉は肥大化し、天井に届くほど大きくなると止まった。困ったのは大きくなりすぎて二人では届かなかったのだが、部屋のガラクタを寄せ集めて更にその上にリーマスとシュナが立ったことで何とかあと数センチで取っ手を回せるところだった。涙の海が出来れば部屋から出られるのにとシュナがクスクス笑う。ガラクタの下で危なっかしく揺れながら早くと急かすとシュナはリーマスの肩の上で背伸びして取っ手を掴み、そのままぶら下がるような姿勢で扉を蹴って光の中へ飛び出していく。反動で後ろに倒れた体を起こして同じようにガラクタの山を蹴る。扉が開いた。

 シュナは嵐のような女の子だった。実際リーマスより数センチ背が高かったし整った顔立ちをしていたので、明るい場所で改めて彼女を見たときは驚いた。あれからあの部屋にどのくらい居たのか定かでない。けれど外ではほんの数分しか経っていないようだった。長い間見ていなかった光が差し込む城の中は眩しくて目が眩む。二人とも息をつきながら転がるように這い出した。人の動き回る気配が極端に少ないのでもしかして授業が始まったのではないかと思案しているところに丁度、グリフィンドールの男の子たちがやってきた。階段の向こう側を少し急ぎ足で歩いているのはリーマスのよく知る面子だ。シュナが急に素っ気なくなったのでリーマスは首を傾げる。

「よかった。まだ予鈴は鳴ってないみたい」
「そうだね、それじゃ。さよなら」
「シュナ?」

 シュナは振り返らなかった。急に回れ右して反対の方向へ急ぎ足で行ってしまう。小さくなっていく背中をポカンと見送りながら遅れてリーマスも男の子たちの後を追った。何か気に障ることをしてしまったのだろうか、如何せん女の子という生き物は難しい。呪文や魔法界の歴史を教えるより誰か詳しい人が女の子についてのマニュアルを作るべきだと思った。慌てて彼らに追いつくと二人は驚いたような顔でリーマスを見つめる。

「君がクラスに遅れそうになるなんて珍しいな」
「おいおいそれにホコリまみれと来た。何があった?」
「ちょっと色々」

 ジェームズとシリウスはいつも二人で一緒にいる。まるで影のようで、お騒がせなことは最早ホグワーツ中の先生と生徒が知っていた。グリフィンドールの人気者、二人は最高にクールだとリーマスは思う。そんな彼らに閉じ込められた話をしたら間抜けだと笑われるだろうか。歯切れ悪く答えたが逆に好奇心に火をつけてしまったらしく、イタズラめいた表情で聞き返されてしまう。予鈴が鳴るのを聞きながら三人は足早に廊下を走り抜けた。


| 戻る |
×
「#年下攻め」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -