喜びに盲目になってろ
シュナ・キャンベルの朝は慌ただしい。寝起きが悪いせいで中々ベッドから出てこないし、身支度を終えてもルームメイトが引っ張っていかないとすぐベッドに戻ろうとする。それが芯まで凍るような冬の朝だとしたら尚更だった。しかし今朝は特別だった。
ぴりぴりと肌を刺激する寒さに思わず目が覚める。いつもと変わらぬ夜が明けるが、カーテン越しは未だ深い藍色に染められていて、真夜中なのではないかと錯覚してしまうほど辺りは静かだった。天蓋付きベッドのサイドテーブルに置かれた時計だけが規則正しく動いている。それ以外には、皆の寝息とシュナがもぞもぞと身動きした音以外何もなかった。いつもシュナたちが知らない間に部屋を暖めてくれている暖炉の薪は燃え尽きてしまっている。通りで寒いわけだと思った。早朝と言うべきか夜中と言うべきかどちらが正しいのかは分からないが、この時間では暖炉の火も付いてはくれないらしい。思わず手を擦り合わせると、パジャマの衣擦れの音が驚く程大きく響いた。静かで暗い孤独な時間は不思議だった。小鳥のさえずりはおろか、森に住まう動物達の気配もない。ホグワーツが朝を迎えようとしている瞬間をぼんやりと過ごしながらもう一度ベッドに横になって目を閉じる。なんだか、あの特別な時間をみんなが知らないのはもったいない気持ちだった。深い茨の中で眠るようにして意識の底へ落ちていく。夢と現実の境界線を彷徨いながらシュナはときどき空想した。皆フロスト・クイーンを恐れて隠れているのだろう。そろそろ空が白んで来た頃だろうか。意識が浮上しては沈み、また浮かび、また沈む。そんなことを何度か繰り返しているうちに、とうとうゆっくりと昇った朝日が差し込むのを感じた。窓辺が眩しく感じるのは雪が積もったからに違いない。カーテンの隙間から溢れる宝石の輝きに強く惹かれて、シュナはベッドを名残惜しみつつも身体を持ち上げた。ホグワーツにも雪が積もったのだ。だからあんなに外は暗かったのか。シュナが一人で納得していると、隣のベッドで誰かが動く気配がした。
「ねえ、ジェシカ見て! 雪が積もった!」
興奮してジェシカに囁くと、彼女はまだ夢の中なのか眉根を寄せて寝返りを打ってしまう。その拍子に、手入れの行き届いた綺麗なバターブロンドが波紋を描いて広がった。茨に包まれて眠る彼女はさながら童話で読んだお姫様のようだ。普段ツンケンしているジェシカもすやすやと眠っている姿はあどけなく、シュナはなんだかその姿に安心した。
「まだ暗いわよ……寝かせて……」
「もう起きる時間だよ、雪が降ったからまだ暗いだけ。さあ、起きて眠り姫」
「なあにそれ」
「知らないの? スリーピングビューティー」
ううん、とかそうね、とか適当な返事しか帰ってこず今のジェシカには何を言ってもダメだと諦める。シュナは昔からシンデレラとか豊かな幸運の泉とか、そういった童話が好きだった。後者はとても人気が高く演劇などにも好んで使われている題材だと母親が教えてくれたことを覚えている。でもジェシカは童話を好まなかったのかもしれない。きっと同じくらいシンデレラもスリーピングビューティーも有名なはずなのだけど。疑問に思いながらも気を取り直しシュナは勢いよくカーテンを開けた。引き裂くような鋭い音に他の住人も目を覚ましたらしい。やっと意識がはっきりしたジェシカはシュナが誰よりも早く起きたことに漸く気付いたようだった。
「珍しい、だから雪が降ったんだね?」
「槍でも降ってきそうよ」
「ひどいや! 今朝は寒くて目が覚めたのに」
みんながクスクス笑うのでシュナは頬を膨れさせた。そういう日があってもいいじゃないか。ガウンをベッドに放り投げてクローゼットの扉を少し乱暴に開ける。ハンガーに並んだ三つの黒いローブの一番左を手に取って羽織ると休日に着ている私服をスライドして詰める。地味なローブとは対照的で、鮮やかな色彩を持って休日にシュナに着てもらえることを心待ちにしていた。家にいた頃は休日にピクニックをしたり演劇を見に行ったり、お気に入りの洋服達を着る機会があったけれどホグワーツではすっかりなくなってしまった。少し寂しく思いながらクローゼットの扉を閉じる。
ジェシカと大広間に向かうといつもより人が疎らだった。この時間帯は何となく上級生が多いような気がする。シュナは大広間の誰も雪が降ったことなんて知らない様子でいつも通り過ごしているのが信じられなかった。城の外に見向きもしないなんて! 愕然とした顔でオートミールを食べていると、シュナの後ろを通って行った生徒が窓を指しながらはしゃいでいたので満足する。いつもより早く朝食を済ませたおかげでシュナとジェシカは少しだけ時間を持て余していた。最初の授業は薬草学だ。シュナはホグワーツに来てから、薬草学が得意分野と言えるのではないかと思うことが何度かあった。ジェシカに比べたら天と地の差があるけれど、分からないことだらけの中で見つけた数少ない『得意』だった。時間割を確認してから立ち上がる。シュナはトイレに行ってから温室に向かうことにした。後でね、とジェシカに声をかけると混み合ってきた玄関ホールをすり抜ける。人の流れに逆らいながら階段まで辿り着いたとき、シュナは何よりも視界に入れたくない人物を捉えてしまった。咄嗟に顔を背けて一気に階段を駆け上がる。いつも一緒にいる男の子とその仲間達にジョークを言って場を盛り上がらせていたが、シュナにしてみればユーモアの欠片も感じられなかった。どっと笑いが起こるのを出来るだけ聞かないようにしながら最後の段を登りきる。額には汗が滲んでいた。自分がどこで何をしているのかも分からないで顔を上げると、階段はシュナの全く知らない場所へ繋がっていた。階段の気が変わったんだ。すぐに戻ろうとしたが振り返ったときには既に階段は動き出し、シュナが大ジャンプで飛び込まなければ到底向こうまで届きそうになかった。一瞬も迷うことなく飛び込めばギリギリ間に合ったかもしれないが、生憎シュナにはそんな決断力もなければ度胸もない。とにかく進むしかなさそうだ。何があるかも分からない部屋に恐怖を抱きながらそっとドアノブに手をかける。古びた蝶番がギイギイと嫌な音を立てた。
「誰かいませんか?」
真っ暗な部屋の中を覗きながら恐る恐る声をかける。目を凝らしても何も見えなかった。勇気を出して身体を半分部屋の中に入れると、押し込むように扉が閉まって泣きそうになる。どうしてホグワーツってヘンテコな部屋ばかりなんだろうと訝りながらもう一度よく部屋を見渡した。湿っぽくて黴臭い……おまけに埃だらけだ。一瞬、暗闇の中で何かがこちらを見つめたような気がして心臓がドキリと跳ねる。
「そこに、誰かいるの?」
暗がりが見つめ返すばかりだったが、シュナは息を殺して何かを待った。絶対に何かがいる。人か魔法生物か呪いかも分からないけれど、そこに気配があることだけは明確だった。