直前まで物音一つしないのに、そこに突然加わった独特の足音はいつだってしなやかで、最小限に抑えられたものだった。鍵盤の上を細い指先がそっと這う様を思い出す。なまえがやって来るとき、ベルフェゴールは彼女だけが持つ独特の足音を聞き分けていた。彼女はやがて闇の中から現れる。月の見えない夜なのに彼女の存在がすぐ側で感じられる。目を閉じていてもベルには手に取るように分かった。ゆっくりまぶたを持ち上げる。しじまに細く入り込むようにして現れた彼女が視界の端に写った。

「やあやあ」

 ざり、と軽く砂利が擦れる靴音と共に間延びした声が響く。廃れた教会のベンチに行儀悪く寝転んでいたベルを見つけると片手を上げて気さくに話しかけた。ベンチの背に手をかけてこちらを覗き込むなまえは相変わらずのんびりしている。そのお気楽さにベルは変わらないなと安堵するが、同時に苛立ちを覚えるのも事実だった。嫌味のひとつでも言ってやろうかと口を開きかけたがどんな言葉をかけても八つ当たりのような気がして半端に開いた口を結ぶ。結局、ベルの口はへの字に歪んだ。
 今はもう使われていない教会を訪れる人間はいないのだろう。こうやってふらっと立ち寄っても、あのときから何一つ変わっていなかった。剥がれかかった鼠色の壁はシミや汚れが酷かったし、陳列されたベンチの幾つかは腐朽して使い物にならない。教会に入ってすぐ視界に飛び込んでくる大きなステンドグラスは、美しい色彩を失い、ひび割れて、遠い昔に輝かしさを忘れてしまっている。新月で明かりが差さないというのにステンドグラスは青白く、不気味な光を放っているようだった。
 ここで彼女に会えればラッキー程度に考えていたのに、いざその顔を見ると何となく不満が募った。二人はいつでも顔を合わせているわけではない。ベルがヴァリアーに入る前と、それからその一年後、ここ数年間は数ヶ月に一度……下手をすれば年に一度ほどの頻度だった。ベルはヴァリアー幹部という重要なポジションについていたし、自分の部下も抱えている。任務で忙しいことに加えて非常に気まぐれな性格だった。ふと何をしているのか気になることもあれば彼女のことなんて半年ほど忘れていたこともある。他に熱中するものを見つけては簡単に彼女の存在を切り捨てて新しいおもちゃに目をつけるのに、思い出したら気になってふらっと現れる。彼女に会えるのは今日のような月の出ていない夜だけ。お互い闇に溶け込むような、真っ暗の夜。はるか遠くに二人が交わした約束だった。
 ベルのように半年も忘れることはなかったが、なまえだってしょっちゅう来ることはなかった。二人が会うのはたまたま条件が揃ったときだけ。いてもいなくてもそれぞれ勝手に過ごしたし、すぐに帰ってしまう日もあった。自由気ままで勝手な名前のない関係は気づけば八年も続いている。思い返してベルはその事実に驚いた。そしてやっぱり不満に思う。久しぶりに会ったのに随分あっさりとした態度じゃないか、と拗ねた子供のように口を尖らせた。しかしそれをそのまま言葉にするのは幼稚な気がしてなんとなく憚られる。
 ガキかっつーの。逆にこいつになんて言われたら納得するんだよ。会いたかった? 元気にしてた? どれをとっても貼り付けたようで気持ち悪い。

「わたしがいない間も来てた?」
「お前さ……王子がどんだけ忙しいと思ってんの?」
「知ってるよう」

 呆れ眼を向けるとなまえは心外だと言いたげに大きな瞳を見開いた。ジョークなのにとため息をつかれる。ため息をつきたいのはこっちだ。

「で? どーなの?」
「どうって普通だよ。半年くらい前にボスが死んでからドタバタしてたけど……今は落ち着いてまあまあ忙しくしてる」
「誰が継いだ?」
「息子。あんまりこんなこと言いたくないけど、わたしアイツ嫌いなんだ。ウチはちょっと変わっちゃった」

 何ヶ月も会っていなかったから当たり前といえば当たり前だが、ベルにとってなまえが教えてくれる情報は最早ちょっとした事件だった。普通だと言いきれるのは抗争や跡継ぎなんかの一連の波が去って、段々と元の生活を取り戻したからだ。半年も経てば変化にも慣れるのだろう。どうこう口出しすることではないので黙っていた。

「ベルは?」
「別になんもねーよ。部下がザコばっかだから毎日おもしれーほどくたばってく」
「……こんな上司絶対やだ」
「うっせ」
「でもヴァリアーって給料高いしちょっといいなあ。殉職率低くて上司が野蛮じゃなかったらアリかも」
「だから誘ってやったのに。断ったのはなまえじゃん」
「給料以外全部アウトだもん」

 昔、一度だけベルは彼女を誘ったことがあった。十歳かそこらの古い記憶だ。出会った頃、国を出て一人でイタリアをさまよっていたベルはその後すぐにヴァリアーに入隊した。同じく親をなくして行く宛てもなかったなまえはマフィアのゴロツキに拾われて、右も左も分からないままファミリーに入った。歳も近く周りに同年代の遊び相手が居ないというのは当時のベルにとって少し物足りなく、なまえがいれば楽しいんじゃないかと幼いベルが思いついた楽観的な考えだった。死んだらそれまでだったというだけだし、上手くやればそれなりの遊び相手になってくれる。そんな気持ちで話を持ちかけたものの、彼女はファミリーのボスにひどく懐いて忠誠を誓っていた。やさしくて、かっこよくて、大好き。死ぬまでボスとファミリーに尽くす。彼女はよくそんなことを口にしていた。自分の上司に当てはめてみてもイマイチピンと来なかったが、彼女の気持ちが分からなくもないのでそれなら仕方ないと引き下がった。

「……ま、なんでもいーけど」
「そもそもヴァリアーに入ってたらすぐ死んでたよ」
「そりゃそうだろ」
「事実だけど酷くない? じゃ、あのときも死んでもいいから連れて行ってみようって思ってたわけ?」
「ししっ、否定はできねーかも」
「サイテー」
「だってお前いつも木から落っこちてピーピー泣いてたし」
「そんなこと覚えてたの?」

 信じられないという表情のなまえにベルはくちびるの端を吊り上げて意地悪に笑った。擦り切れて色褪せた記憶のはずなのに、今でも鮮明に思い出せるのがふしぎだった。

「それじゃあ、お月さまが眠っているうちに会おうよ。勝手に教会に入り込んでも、今日みたいな夜は目を瞑ってくれるでしょ」

 いたずらっぽく人差し指を立て、無邪気に表情を綻ばせたなまえの顔が、そのとき妙に明るく映った。



 この時期にしては薄着で、ワンピースから剥き出しになった肩は不健康な細さだった。ぼんやりと発光したステンドグラスの光が当たってより一層顔色が悪く見える。本来なら彼女に合うサイズの上等なワンピースだっただろうに、今や肩紐の部分がずり落ちていた。外気に晒された手足を擦り合わせて縮こまっている。こんな夜更けにひとりぼっちでいるなんて、身寄りがないに違いない。孤児か家出かはたまた幽霊か。ベルは一瞬本物の幽霊を見たかと思った。勢いだけで飛び出してきて住む場所もなく路頭に迷っていたベルは、たまたま覗いた教会のベンチに頭を預けて眠るなまえを見たとき、こうなる前に手を打たなければと思った。やっと解放されて、唯一楽しいと思えることを見つけたのに、犬死になんてごめんだったからだ。近づいてもビクともしないのでもう死んでいるのかと思ってしばらく見つめていると、肌を刺すような視線に気づいて目を開ける。なんだ生きているのかと思いながらベルは特に理由もなく喋りかけた。月が顔を隠しているせいでお互いの表情はよく見えなかったけれど、長いまつ毛がふるえたのが分かった。このまま眠っているうちに死なれたら、朝起きたときに気分が悪い。

「親は?」
「いない」
「家は?」
「ない」

 じゃあ一緒。そっか。オレも家出みたいなもん。似てるね。そうだな。
 まるで捨てられた猫みたいだった。二人して教会の床に座り込む。決して後戻り出来ないことに怖気付いたわけではなかったが、しかし何も持たずに身一つで城を出たベルにとって、ひとりぼっちではないという事実はこの上なく心強かった。同じような人間がいる、親も帰る場所も持たないふたりぼっち。
 しばらくして教会での出来事が忘れられずに顔を出してみると、とっくにくたばっていると思っていたなまえがいた。街に出て観光客が多い場所に行き、スリで生き延びていると言う。スラムは地獄のようなところらしい。城で育ったベルにはスラムなんて想像もつかなかったし、それまで存在も知らなかった。相変わらず体の線は貧相で子供らしくない。その後すぐにベルは成り行きでヴァリアーに入ったのでなまえのことを思い出すことはあってもヴァリアー邸から遠く離れた教会にわざわざ足を運ぶこともなく……ほとんど一年経って再開したとき、なんとなまえもマフィアになっていたと聞かされたときは驚いた。

「こんな毒くらいなんとかしろよ」
「自分でできるよ!」
「骨折れたくらいで泣くなって」
「泣いてない」
「泣いてるじゃん」
「わたしベルよりひとつお姉さんなのよ、我慢できるもん」
「それを意地っ張りって言うんだよ」

 なまえにはベルが持って生まれた天賦の才はなかった。そこらの子供と変わらないただの女の子。当たり前に出来ないことの方が多い。怪我をしたら泣くし、痛みを感じたら顔を歪める。数年も経てば狙撃はなんとか様になっていたが、背が伸びても声が変わっても彼女に人を殺すための道具は似合わなかった。

「はじめて人を手にかけたのっていつ?」
「八つ。お前と会う前に兄貴と、他の奴ら全員」
「聞いてない……」
「お前が聞かなかったからじゃん」
「まさか八歳の男の子が人を殺してるなんて誰も思わないでしょ」
「最初に言わなかったっけ」
「家出したって言った!」
「変わんねーじゃん」
「全然違うし」
「てかなに。今更怖気付いたの」
「いや……きっとこれから沢山の人に恨まれて地獄に落ちるんだろうなって思ったら、地獄ってどんな所なんだろうって」
「懺悔でもするか? いもしない虚像の神さまってやつに」

 今から死ぬときのことを考えているなんて変なやつ。死んだらそのとき考えりゃいいのにな。なまえがはじめて人を殺した夜、二人は月に隠れてそんな話をした。とても神聖な場所でする話ではなかった。罰当たりなのは重々承知でも声を上げて笑わずにはいられない。地獄行きは確定だった。

「でも、友達がいれば楽しいかな」

 トモダチ。お互いにとって生まれて初めての存在だった。確かにそうではあるのだけれど、ただ単にその枠に押し込められるのがつまらなく感じた。じゃあ何になりたいんだと考えてみても答えは出ない。

「お前がいるならそう悪くないんじゃないの」



 ベル、ベル。しっかりしなよ。スクアーロの機嫌が悪くなる。
 右から左に流れていた誰かの声がふっと止まる。自分の名前を呼ばれて漸くベルは顔を上げた。こめかみのあたりを見えない糸で引っ張られるような心地でのろのろと目線を向けると、一メートルほど先にギラついた双眸があった。いつもより力強い光を放っているのは気のせいではない。瞬きひとつせずにじっとベルを見つめているので、ベルは最初それがスクアーロの鋭い視線で、自分のすぐ近くに立っていて、ベルがぼんやりしているせいで殊更苛立っているのだということに気づけなかった。今が作戦会議の前だということをすっかり忘れていたのだ。

「全く……ぼんやりしないでよ」
「マーモンだってこの前寝かけてたくせに」
「なんのことだい」
「しらばっくれんな。王子がボスにチクらなかったこと感謝しろよ」
「うるせぇぞガキ共! 喧嘩はじめてんじゃねえ!」
 ガキ呼ばわりされて不機嫌になるベルとマーモンを無視しながら、ややあってスクアーロは任務の詳細を話し出した。資料には軽く目を通したが、連日の任務で疲労しているせいか頭の中を巡る文字の羅列の整理がつかない。半分ほど差し掛かったところで目のピントが合わなくなって読むのをやめた。眠い。近頃はスケジュールが立て込んでいてあまり睡眠がとれていなかった。任務に支障が出るほどではないが、微妙に寝不足で苛立って仕方ない。残りの部分は移動中に読んでしまおう。隊長が真剣に話しているのを聞き流しながら、上等で大きなソファーの上で猫のように伸びをして欠伸を噛み殺した。
「今日は新月だからちょうどいいね」

 誰に言うでもなくマーモンが呟いた。確かに光がないのは都合がいい。余計なモンも見なくて済む。最近キナ臭い動きを見せていたとあるファミリーが本格的に暗躍しだし、漸く尻尾を出したらしい。大人しく傘下になればよかったものを、成り上がって調子に乗ったツケが回ってきたのだ。大した任務じゃないけれど土地だけはバカみたいに持て余しているようだ。人数が多いに越したことはないと三人で向かうことになった。隊長は南……マーモンは北……オレが西で、しかも一番小さい倉庫かよ。納得いかねー。どうせ骨のあるやつもいない、暇つぶしにはなりそうだ。「それじゃあまた後で」そう言い残してマーモンは闇に溶け込んだ。隊長が準備万端だと無線を寄越してきた。手持ち無沙汰にワイヤーを弄っているのはベルだけだ。のそのそと立ち上がって木から木へと飛び移る。そういえば資料を読むのをすっかり忘れていた。配置も人数もその場で適当に把握出来る、もうここまで来たら目を通さなくたって関係ない。そう高を括ってベルは資料をズボンのポケットに突っ込んだ。マーモンの言う通り今日は月のない夜だった。そういえば最後になまえに会ってからゆうに半年は超えている。任務終わりにでも寄ってみるのもいい。これが終わればしばらく暇になる。彼女に会えたらいつものちょっとした近況報告をして、それからヴァリアーの話でも教えてやろう。なまえは他の幹部のことを怖がっていたが、ベルが面白おかしく話すときだけはよく笑っていた。ああそうだ、うっかりナイフで隊長のフェラーリを傷つけたのを、レヴィのパラボラの傷だと言い張って誤魔化したときは死ぬほどおかしかった。結局レヴィが濡れ衣を着せられたのだ。ゲラゲラ笑っていたらマーモンに咎められたっけな。あー今思い出しても笑える。腹の奥からふつふつと笑いが込み上げてくるのをこらえてベルは緩く口角をあげた。
 ふと夜のしじまに聞き覚えのある足音が混じって聞こえてくる。ちいさく、しなやかで、つま先立ちでくるくると円を描くような……鍵盤の上を指先がそっと這う音。まさか。ありえない。なまえのことを考えていたからだろうか。これから始まるごっこ遊びのような戯れへの興奮と、ふしぎな居心地の悪さがせめぎ合う。心臓は期待に打ち震えているはずなのに、肌にまとわりつくじっとりとした感覚が拭えない。もうすぐ襲撃されたアジトが阿鼻叫喚の地獄と化す。そうすればこの嫌な感覚も自然と消えるだろう。乗り込む直前までベルの脳裏には、いつの日か見たなまえのあどけない笑顔が浮かんで消えなかった。

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