最近クラスの雰囲気はとても悪い。重苦しく、停滞した空気が、みんなを呑み込んでしまいそう。蔓延している。大きなかま首をもたげて、今か今かと待っている。けれど、呑まれてしまうのも仕方のないことだった。わたしだって不安だ。学校も、親も、ヒーローも、社会全体も。みんな不安だ。ヒーローだってただのひとなのだから。

「どうしよう、どうなるんだろう、これから」
「だいじょうぶだよ。ヒーローがいるよ」
「でもっ……」
「泣かないで」

 目に見えない世間の不安に押しつぶされそうになって、友達はいよいよ顔を覆って泣き出してしまった。彼女の目からころりと涙が落ちてくるのを見た。みんな駆け寄ってさめざめと泣く彼女を落ち着かせようとする。わたしはハンカチを差し出した。ほんとうは、わたしがいちばん怖かった。自分の腕が震えているのを必死に隠す。思わずまぶたがあつくなったけれど、誰かが泣いていると一周まわって冷静になれた。普段は誰も彼も痛々しいくらい賑やかにしているから、こんなに上手くやれないのは自分だけだと思っていたので、やっぱりみんな泣くほど堪えているのだと分かって少しだけ安堵したのかもしれなかった。

 表向きだけでもみんなのように強くありたいけれど、そうはなれない。どんなに辛いときも笑っていよう! なんて立派なのは志だけ。ただの思い上がりだった。暗いときだからこそ明るい笑顔でいなくちゃいけないんだって、分かってる。入学してから立て続けに敵の襲撃事件が起きているのはどう考えても不自然で、ニュースも雄英の失態で持ち切り、それが社会全体の不安を煽っているのは間違いない。生徒たちだって不安に苛まれた渦中にいる。押しつぶされそうな毎日を、なんとか笑って、ギリギリやってのけるのに精一杯だ。
 もっともっと私の精神を追い詰めることが起きてからは、じょうずに笑えなくなってしまった。



「泣いてんのか」

 冷気を含んだ硬質な声が降ってくる。まさか声をかけられるとは思ってもいなくて一瞬涙がとまった。わたしは結局泣いていた。
 轟焦凍。色彩の異なる両の瞳がまっすぐわたしを見ている。どうしたものかなと困り果てて、とりあえず立ち上がろうと腰をあげる。気まずいし、この人気遣いとか出来なさそうだし……何より冷静になってみると泣いていたところを見られた、という事実に急に恥ずかしさが込み上げてくる。元々口数は少ないから言いふらすような人ではない。分かっていても居心地が悪かった。

「ごめん」

 なんで謝ってるんだろう。もう、なんでもいいから一刻も早く立ち去りたい。プリーツの形が崩れて、くしゃくしゃになるまで握りしめていたスカートのしわを伸ばしてなんでもないふうを装った。これから教室に戻らなくちゃいけないんだ。これでいいんだと思う。分からないけれど……たぶん。

「みょうじは教室でいつも笑ってるよな」
「ううん、そうかな」
「そうだろ」
「そうかな……」

 すごく掘り返すようなこと言ってくる。痛いとこ的確に突いてくる。やめて。今その話題はタブーすぎる。皮肉っているわけじゃない。きっと疑問に思ったから素直に口にしただけなんだろうけど。ひりつく目元を擦りながらこの会話を切り上げる策を巡らせた。

「面白くねーのに笑って楽しいのか、って思ってた」

 とうとう彼はわたしの脳が打開策を見つけるより先に話し始めてしまった。頭を悩ませていた矢先の鋭い言葉にぎゅっと心臓を鷲掴みにされた心地になる。辛辣だなあ。よく見てるって思ったけど、そう言われてしまうほど、わたしの笑顔が下手くそなのだ。それは自分でも分かっていた。

「癖みたいなものだし……いまは、こういうときだから、余計に」
「そうか」
「うん、別に無理して笑ってるわけじゃないよ」

 昔から、なんでもないときも悲しいときも困ったときも、とりあえず笑う。笑っときゃいいかって思う。いつ頃だったかは思い出せない。へらへらしていると決まって彼の冷ややかな視線が投げられるのには気付いていた。彼はもう一度そうか、と静かに言った。分かってくれたようでなによりだ。今度こそ立ち上がって彼の隣をすり抜ける。

「みょうじ」

 呼び止められて振り返る。今日はすごく喋るみたい。饒舌な彼の表情を読んで推し量ってみたけれど、やっぱり分からない。

「お前もちゃんと泣いたりするんだと思ったら……なんか、スッとした」
「もしかして、腹を立ててたの?」

 彼の指すスッとしたの意味を考えるに、あの視線やついさっきの発言からして苛立ちを覚えていたんじゃないだろうか。あんまり話したことのない人の恨みを買うってこういう感じなんだ。確かにいつでもへらへらしてる女が鬱陶しいという言い分はよく分かる。

 彼って変わった人だ。無頓着でもっと凍てついた氷みたいな人なのだと思っていた。ぽつりぽつりと産み落とされる言葉には、はっきりした色彩があった。変なの、彼にならって素直な気持ちを口に出すとオウム返しに繰り返す。心做しか落ち込んだ声色だったような。いや、分からないけど。別にそんなの真に受けなくていいよ。轟焦凍という人間を構成する欠片を理解出来た気がしていると、予想外に彼は「なんかあったのか」ともう一歩わたしに近付く。意外だ、でもそれってつまり、まだまだ知らないことだらけってことだ。わざわざ引き止めて話を聞こうとしてくれている。悔しいのも辛いのもみんな一緒だ。怖いと思ってるのだってわたしだけじゃないことを思い出す。そうしたら、この痛みとかなしみを少しだけ分け合うのも、許される気がした。

「最近何かと物騒じゃない、それでお母さんがストレスで倒れちゃって、わたし、すっごいびっくりして……色々重なってちょっと落ち込んでただけ」

 許される気がしたけれど、やっぱりなんだか自分だけが不幸だと嘆いているような気がして、慌てて笑った。すぐに彼の眉間にしわが寄る。あ、いま、何かを間違えたみたいだ。

「辛いなら、辛い顔しろ」
「できない」

 いつの間にか伸びていた手が頭の上にぽすんと乗っかる。轟焦凍に触れられている事実にぎょっとしたが、それからなぜか胸が塞がる思いがして、驚いたことは忘れてしまった。じんわり込み上げた涙を留めるように、もっと口の端を吊り上げる。癖だよ、こんなの。もう泣くまいとするわたしを見る目があんまり形容しがたくて、やっぱりまだ彼の考えることが分からない。ぎこちない指先のぬるい温度に、救われたような気がした。(2020.12.24)

×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -