わたしの記憶には知らない男の子がいる。リンゴの被り物をした変な男の子。手を握って、熱っぽい表情でこっちを見つめてささやくから、わたしはただ眉を下げて困ったような顔をするのだ。名前も知らない未来のきみの言うことなんて嘘っぱちに決まってて、全く信じちゃいないけど、でも、どうしてもあのビーズを散りばめた宝石箱のひとみが忘れられない。わたしはずっと、心のどこかで真夜中のファンタジスタを待っているんだと思う。ちいさくてやわらかい手とか、あどけない輪郭をなぞる指先とか、魂を吸い取られそうに綺麗なひとみとか。そういうの。凪いだ表情でつらつらとびっくりするような愛をささやくきみに、最初から全部奪われていたんだ。未来の恋人なんて言って気を引こうとしなくても、もうとっくに、笑っちゃうほどあっさりと恋に落ちていた。

 勉強机に向かったままぐるぐる椅子を回転させて、どうしても思い出せなかった公式と照らし合わせるために教科書を開く。ページをめくり、一度手を止めて解答用紙の文字を思い出す。配られた直後、真っ白のプリントにわたしはなんて書き込んだっけ。そこで一度思考停止した。あ、いる。あの子がいる。つまらなさそうに頬杖をついてだらしなく足を広げていた。ぱちぱち瞬いていると目の前が塗り替えられていく。

「ばあ」

 ほんとうに驚かせる気があるのか、と疑いたくなるレベルでやる気のない声が響く。けれど今のわたしにとって、何もかも腰が抜けてしまうほど驚く材料になる。

「お、おばけえ」

 いつだってこちらを見据えている流星群のひとみが目の前にある。きらきらとかがやいて、そのレンズの中にわたしを映している。おばけの割には結構しっかり実態があるように見えなくもないけれど、混乱していてそれどころではない。そういえば初めて喋ったなと思ったのはその後だった。

「あの、びっくりするので人の記憶をいじくらないで下さい」
「気づいてたんですねー」
「そりゃいつでも見つめられてたら」
「迷惑ですかー? だったらやめますー」

 それまで淡々と喋っていたリンゴの彼が、はじめて目を伏せる。こっちでは会うのははじめてとか、よく訳の分からないことを言っていたので警戒心を抱いていたはずなのに。あんまり切ない顔をするのでこっちが悪いことをしている気分になった。騙されてはいけない、危ない人かもしれない。まだあどけなさを残すその横顔を見ながらわたしの思考はゆらゆら揺れていた。

「いや、その……不思議な体験だなって、別に迷惑とかじゃ……」

 なんで目的も分からないような男の子に対してこんなに低く出ているんだろう。色々と普通ではないとか、そういうことはこの際もう考えないことにした。

「びっくりするかもしれませんけど、聞いてくれますかー?」
「どうぞ」

 もうこれ以上びっくりすることなんてないにきまってる。わたしはたかをくくって男の子の言葉を待った。

「きみはミーの未来の恋人なんですよ」

 びっくりした。今までで一番の衝撃を受けたんじゃないかと思う。ぽかんとして口を開けているわたしを放って彼はペラペラと未来の二人について喋っていた。未来じゃわたしたちはそりゃもうお互いベタ惚れでイチャイチャラブラブのめろめろらしい。信じる信じない以前に、わたしの哀れな脳ミソでは受け止めきれないことが多すぎた。二人の馴れ初めについてしきりに話していた彼は思い出したように口をつぐむといそいそと帰る準備をし始める。帰る、という表現が正しいかは分からないけれど。

「……待っててくださいねー」
「未来に帰るの?」
「あー、さみしくなっちゃいました?」

 別にそういうわけではないんだけどな……本当に疑問に思っただけなんだけど、もう彼の思うように受け取ってもらえればいいや。さよならダーリン。きっと未来で会うことはないだろうな。

「必ず、なまえに会いに来ますから。約束ですよー?」

 あんまりよく分からないままコクコク頷く。とにかく、一刻も早くこの不思議な現象から解放されたかった。いつの間にか熱の篭ったひとみで見上げられ、ぎゅうっと両手を包み込まれている。ちいさな手だ。さっきとは打って変わって気だるげな雰囲気を微塵も残してはいない彼は熱っぽくささやいた。それがどうにも恥ずかしくてわたしはたじろぐ。誰かに言い寄られることも、こんな奇妙な経験をすることもあまりない。あれ、そういえば名前、教えたっけ。最後まで何も分からないまま、彼はふっと消えた。「覚えててくださいねー」ぽっかり浮かんだ言葉は今もずっと鼓膜に響いている。数年後、カエルの被り物の変わった男の子と出逢うことも知らなかった。

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