「せんせえ」

 先生でもせんせーでもなく、ちょっと間延びした関西特有のイントネーションでわたしはその名前を呼ぶ。「躑躅森先生」と呼ぶのは恥ずかしくてできなかった。それにちょっと長いし、呼びずらいから。

「これちゃうんとちゃうん?」
「……ちゃうとちゃうんとちゃうん?」

 配布された回答の大問1を指差しながら、何回照らし合わせてもあわなかった解説をなぞる。結構真面目に話していたのに先生はやや間をとって、何故かネタをかましてきた。意味わからん、何でここでやねん。職員室やで。そう言いたくなったけれどこの人のこういうところが好きだと思った。ぷは、と吹き出すと「そないに笑わんでもええやろ」とちょっと不服そうな顔をした。かわいい。せんせえはかわいい。ほんで面白い。

「アホらしいわ」
「ほんまや」
「のってきたのはそっちやのに」

 きゅきゅっ、とこそばゆい赤ペンの音がする。所々で手を止めながら間違っていた解説に上書きしていく様子を黙って見ていた。先生はおもむろにペンを置くとテスト前やのにすまんな、と呟く。わたしにはどっちの意味か分からなくて黙り込むことしか出来なかった。ただ、もう用が済んでここから立ち去らなければいけないということがかなしくて、どうにか悪あがきしようとわたしは必死に考える。教室なんかよりずっとあたたかくて贅沢で、いつもコーヒーの匂いのする職員室から出たくなくて仕方がなかった。

 物心ついた時から大人が好きだった。
 年の差が一つや二つしかないような先輩や後輩なんかより、落ち着いていてやさしくて、包容力のある大人の人が好きだった。いとこや親戚の中でもわたしは大きいお兄ちゃんによく懐いていた。小学校の時の担任を好きになったのが初恋、それからは年上としか付き合ったことがなかった。だから高校で出会った教師に恋に落ちるのもわたしからすれば変わった話ではない。ただ今まで好きになったどんな男の人よりも大きな存在になってしまったことを除いては。それまで友だちに打ち明けるつもりもなければ相談するつもりもなく、ひた隠しにしてきた教師への何度目かの恋は全く覆ることとなる。

「せんせえ」

 冗談に触れてみたりなんでもないのに名前を呼んだり。留まることのないラブコールを送る毎日、わたしの好意は最早学年のみんなが知っていた。わたしは顔を見るだけで喋れなくなってしまう純粋な女の子をやめて、周りの子と一緒になることで先生に近づくことができた。ふざけて声をかけて、軽々しく好意を伝えた。実際先生はモテた。みんながただのファンでも、わたしだけが違っていた。多分それを先生も気づいていたのだろう、生徒としてちゃんと向かい合ってくれることはあっても絶対に必要以上話しかけたりすることはなかった。そんなところも含めて好きだった。恋焦がれていたけれど、それが実現する可能性なんて夢にも思わなかったわたしは毎日先生の顔を見れることだけで満足していた。たまに彼女がいたらヘコむと考えることはあっても、自分がその枠に収まりたいだなんて思ったことは一度もない。そうするにはあまりに非現実的で歳も離れすぎていた。相手にされないからずっと好きでいられたのかもしれなかった。

「みょうじも、もうじき卒業や」
「さみしい?」
「……ぼちぼち」

 卒業も間近に迫った冬の日。先生は急に、そんなことを言った。自由登校が始まって三年生が来なくなる前の日のことだった。「ぼちぼち」確かに彼はそう言った。ははは、と笑いながら眉を下げて困ったような顔をした先生がわたしの頭をぽんぽんと撫でる。それだけで、たったそれだけで死んでしまうほど嬉しくて、わたしは堪えきれずに学校を出てすぐ、情けなくうわんうわんと泣きながら帰った。笑ってしまうほど子供だった。それからはあっという間に時間が過ぎる。

「せんせえ、すき」
「ずっとすきや、大人んなっても、ずっと」

 卒業式ではろくに泣かへんかったくせに、最後に並んで写真を撮ってもらった時先生はそう言った。確かにそうやと思った。でも、どうしようもなかった。きっとこの先また年上に恋をする、そうしていつかは他の男と結婚して、先生もまた他の知らない女と結婚する。間違いなく、後にも先にもこんなに好きになる人は先生が最後だということだけは確かだった。

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