06



「は、はへ……」
「なんで、っていうか、きみ、きみからだが! ええ、なんでっ!?」
「うがっ、いたいよアレン」

 消えていない。なまえの身体は寧ろ以前よりくっきりと色形を成しているような気がしないでもなかった。一度透けて淘汰された彼女がなみだに濡れた頬を触りながら困ったように眉を下げる。慌てているのはお互いだった。思わずがくがくと揺さぶると目を白黒させる。すみません、とすぐに謝って首元を離した。不思議なことに手応えのある感覚だった。幾ばくか薄っぺらいにしても、生きる人間とはまた違う、しかしはっきりとした。なまえは死という概念を受け入れて還ったはずだった。少なくとも本来ならゆっくりと浄化された魂が昇って、やがて流転し六道を廻り回ってまた生を受けるのだ。古来よりそう信じられてきた。彼女によって根本は揺るがされてしまったが。

「あ、ごめんなさい……でも」
「分かってる」

 こくりと頷いたなまえの瞳は真っ直ぐだった。アレンはすぐに彼女の意志を汲み取る、願いは叶った。望んで留まろうとしたのではない。それだけ分かれば十分だ。

「……きみの意志じゃないんですね」
「うん。だけど」
「どうして、まだここにいるのか」

 言葉の続きを引き取る。何故、彼女の魂は未だ留まっているのか。問題はそこだった。イレギュラーなことが起きている。変わったケースだったとはいえ果たしてこんなことが起こるのか?アレンはこのような場合にも立ち会ったことがあるが、如何せんこんなことは初めてだ。記憶と混合した時空が何かしら障害を起こしているのかと思ったが、なまえの顔つきを見るから意識は明瞭のようだ。その可能性は絶たれた。となるといよいよアレンは困り果ててしまう。一応あれでも聖職者のはしくれではあるのだから、国内にいるうちに起こりうる全てのことを聞いておけばよかったと後悔しても遅い。出てくれるか分からないが残された電話番号に一か八かかけてみよう。カバンを持ち直してアレンは立ち上がった。あたりはもうとっぷりくれていて、紺碧の空はどこまでも広がるカーテンのようだと思った。

「とりあえず、うち来ます?」

 なまえはいいのか不安そうな顔をした。アレンはにっこり笑って手を差し出した。

「さ、帰りましょ」
「……ええっと、お世話になります」

 おそらく……半分とはいえ実態が存在している。この姿が他人の目に映るかは分からないが、前よりしっかりとした肉体を持っている彼女を放っておくわけにはいかなかった。アレンも混乱を極めていたが、一番今起きていることを飲み込めていないのは彼女自身。それにこれはクロスに報告しなければならない。あの男なら知っているかもしれないが、アレンにとっては未曾有の事態なのだ。後できっちり話してもらわないと。それに、さすがに女の子を夜の学校に置いて帰るのは酷だろう。今更家には帰れないだろうし、都合が悪いはずだ。相手が男であってもおそらく彼は受け入れた。放っておけないのだ、本当に。今頃またどこかで浴びるように酒を飲んでいる師匠に、だからお前は面倒事に巻き込まれるんだよと鼻で笑われている気がした。

「こっち。今は僕ひとりで住んでるんです、あと犬が一匹かな」
「一人暮らしなんてえらいね」
「そうでもないですよ、ご近所さんも親切にしてくれますし」
「たくましい……」

 なまえはアレンがひとりで住んでいると言ったことに対して当たり障りない反応を示すだけだった。そこには触れず、バイトやらなんやらで上手くやりくりしているたくましさに感激している。わたしも犬が好きだよと言って笑った。

「なんて名前?」
「ティム」
「かわいいね」

 アレンは大きなはちみつ色をしたゴールデンレトリバーの愛犬を思い出す。もともとはクロスがずっと連れていた愛犬だったのだが、気づいたら懐かれていたのだ。クロスがいなくなってしばらくは目に見えて落ち込んでいたが今は元気を取り戻したようで、最近は散歩をせがむしご飯も以前のように食べてくれるので安心している。時折、夜になるとさみしそうにくんくん鳴いていることもあるがなまえが増えれば賑やかになるだろう。よくよく考えてみれば、二人(そのうち一人は幽霊)と一匹での生活が始まるのは奇妙だった。彼女という概念、一つの個体の巡り合わせから邂逅も運命の行く末もすべてが奇妙なのだ。運命だと思った。一時期、大切な人を失い魂が抜けたようになっていたアレンを、クロスと共に根気よく世話してくれた老婆の言葉が記憶の底から掘り起こされる。今になってやっと、その人の言葉を本当の意味で理解したように思えた。じゅわり、じゅわり、と身体の芯に満ちてゆく。

「人と人との運命ってのは数奇でね、絡まったりねじれたり、時にはぷっつり切れちまったりするもんさ……すべて神さまによって、巡り合わせでできてるんだよ。お前は、今はまだ分からないだろうね、アレン……いや何、いいんだよ。けれどあの男は、その『縁』を解いたり結んだりして正しく繋ぎ合わせているんだ」

 アレンが正気を取り戻した、きちんと食事を取り、言葉を発するようになった後の出来事だ。骨まで凍えるような寒い冬の晩のことだった。暖炉のまきがぱちぱちと爆ぜて音を立てている。アレンは湯気が立ち上るホットミルクを飲みながら、目の前に対面して座っている老婆のしわくちゃになった大きな手を見ていた。擦り合わされるたびにかさかさと乾いた音がする、けれど、何もかもを包み込むようなやさしい手だと思った。

「……えに、し」
「そうさ。この世の森羅万象には『縁』があって、『魂』が宿る」

 だったら僕がすべてを繋ぎ合わせる縁になる。師匠のように、同じようにやってやる。僕にだってできるはずだ。アレンは黙って隣に並ぶ彼女を見た、影のない、彼女を。

「犬好きだって言ってませんでした!?」
「言ったけどわたしは好きでも動物のほうには嫌われるって言うか……?」
「なんですかそれ!」
「で、でも動物は好きだもん!」

 家の前に近くなった時からティムが威嚇した声で吠えるのでまさかと思ったがそうらしい。いつもなら嬉しそうに吠えて出迎えるが、今日は明らかに機嫌が悪い吠え方だった。焦ったように弁明するなまえに呆れ返って言葉も出ない、これは幸先が怪しいな。アレンは苦笑いを浮かべながら何とかティムをなだめて落ち着かせる。玄関に揃えられた靴が二足あるというのがなんだか変な感じだった。というか靴履いてたんだ。なまえには食欲や睡眠欲など人間としての欲がないらしいので食事などは不要とのことだ。その後短い会話を交わしてアレンは先に夕食をとり、風呂に入った。なまえはその間ずっとリビングのテレビに夢中で、数年前打ち切りになったクイズ番組がやっていないことに落胆したり今日九時から新スタートの恋愛ドラマに飛び跳ねたりと忙しそうだった。そんな彼女を横目にアレンはタオルで頭を拭きながら自室へ上がると、ずっとしまい込んでいたメモを取りだした。並んだ数字を何度か確認したあと発信のボタンを押す。国際電話なのであまり時間を取られたくないのだが仕方ない。きっと事情を説明したら余計なことをするなと叱責されるだろう。情が移ったりした時は横っ面を張られるに決まっている。分かってます師匠、分かってますよ。大丈夫。アレンは何度も自身に言い聞かせた。

 「かわいいね」

 そう言って細められた瞳がどうしてか脳裏に焼き付いて剥がれない。なまえは、あまりに人間味に溢れすぎている。



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